アーネスト・サトウ『会話篇』にみる日本の文化(日本文化ゼミ報告)
2023/01/13
日本文化ゼミは四つのクラスに分かれており、石川ゼミは「ことばを通して日本の文化を考える」ことをテーマに活動しています。
本年度の3年生のクラスでは、個人研究とともに、以前の記事で紹介したとおり、アーネスト・サトウの『Kuaiwa hen(会話篇)』(1873年)を読み、江戸時代末期から明治初期にかけての人々のくらしやことばについて考えました。
EXERCISE XXII「THE SEASONS.」の「Winter.」の項では、寒に入る時期、すなわち陰暦における立春前のあいさつの会話が記されています。その節を読み、学生が着目し調査したキーワードをご紹介します。
「お歳暮」
- Toshi no kuré dé sazo go hanyô dé gozaimashô.(年の暮れでさぞご繁用でございましょう)
- Hidoku oshi-tsumarimashita. Sadamété o isogashiu.(ひどく押し詰まりました。さだめてお忙しゅう)
- Séwashii no dé o seibo ni mo agarimasen’ dé hanahada ai sumimasen’.(せわしいのでお歳暮にもあがりませんではなはだ相済みません)
かつては12月になると、実家や親族、お世話になった人などにお歳暮を贈り、その際、直接にあいさつをすることも一般的だった。そのため、「お歳暮にあがる」ということばが使われている。現在では、年の暮れに贈り物をもってあいさつにうかがうということはほとんど見られなくなっている。また、現在では上司や相手方の親族などに儀礼的に贈るという向きが強く、せわしない年の暮れを避ける方がよいという現代的な日本の考え方から、配達の時期も11月下旬まで早まっている。日本の文化といえる伝統的な行事ではあるが、時代にあわせ、その姿は変容しているといえる。
「手水鉢」(ちょうずばち)
- Masumasu o samui koto des’.(ますますお寒いことです)
- Shikashi hodonaku kan ga irimashô kara, kô dé gozaimashô.(しかしほどなく寒が入りましょうから、こうでございましょう)
- Késa no samusa wa dô dé gozaimashita.(今朝の寒さはどうでございました)
- Iya mô, okité té wo arau koto mo dékimasen’ deshita. Chôdzu-bachi no midzu ga maru dé kôri-tsuité shimatté, ishi dé tataité mo dô shité mo shiyô ga arimasen’ dé gozaimashita.(いやもう、起きて手を洗うこともできませんでした。手水鉢の水がまるで凍りついてしまって、石でたたいてもどうしてもしようがありませんでございました)
寒が入る時期、すなわち立春前のいちばん寒い時期において、手水鉢の水が凍りついてしまった、という会話である。本来は神仏への祈りの前に手や身体を清める意図で設けられていたものだったが、のちに手洗いの水をためる鉢として、日常的に使用されるようになった。「寒くなった」ことから冬を感じるというのは現在に通じるが、手水鉢の水が凍ったことから冬を知る、というのはいかにも当時らしい。サトウ『会話篇』は基本的に東京(下町)を舞台にしているが、水道が整備され、また暖房器具が充実した現在の東京では、手洗い用に鉢に張った水が凍りついてしまうということはまず見られない光景だろう。
学生が着目したキーワードふたつをご紹介しました。
会話の内容ばかりでなく、ことばそのものにも当時のありようはあらわれています。「お忙しゅう(ございます)」、「お寒いことです」は、現在なら「お忙しいでしょう」「寒いですね」といった言い方もしそうですが、当時にこうした言い方の例はほぼありません。「形容詞+です」の言い方が広く認められたのは戦後のことであり、「でしょう」というかたちが広まったのも、サトウ『会話篇』より後の明治20年代以降のことです。日本語に「です」を普及させたのは明治期の洋学会話書であるといわれており、サトウらがいなければ、私たちの「丁寧」なことばのありようは、別のものになっていたのかもしれません。
来年のゼミでは、種々の資料からどのように日本の文化を読み解くことができるか、今から楽しみにしています。
石川 創
- ※ サトウ(Satow)は、日本の「佐藤」姓とはまったく関係がありませんが、親日家のサトウは佐藤愛之助を名乗ったこともあります。