松茸にみる日本人と自然の関係

栗・柿・秋刀魚、日本の秋の味覚はいろいろありますが、なかでも松茸はその最高峰に位置づけられるでしょう。毎年、この高価な食材を口にしたいと願う日本人により、世界中の松茸が海を越えてもたらされます。

室町時代の公家や僧侶たちの日記には、毎年秋になると松茸が贈答品として頻繁に記載されており、松茸が旬の食材としてだけでなく、季節の贈り物としても古くから重宝されていたことが分かります。また、上流階級にとどまらず、江戸時代の農民たちにとっても、松茸は秋祭りのご馳走とされ、商品価値のない物などは乾物や塩漬けにして、農家の保存食とされていました。このように、かつての日本で多くの松茸が採れていたことは間違いありません。では、いつ頃から国産の松茸は貴重な高級食材となってしまったのでしょうか。

かつての日本では、稲作などに必要な肥料とするために、大量の若木や下草が、村近くの里山から刈り取られていました。また、里山の樹木は、薪や炭といった燃料用材としても、伐採が繰り返されていたのです。

このように芝刈りや樹木の伐採と聞くと、皆さんは人間が自然を破壊しているように思われるかもしれません。けれども、下草刈りや適度な間伐といった人間活動は、里山を維持する役割も果たしていました。人工林である里山の雑木林を放置すると、生命力の強い植物ばかりがはびこり、やがて生物多様性は損なわれていきます。むしろ定期的に人間が手を加えることで、里山にはさまざまな種類の植物が育ち、多くの昆虫や野鳥・小動物たちが集まってきます。かつての里山は、人間に利用されることで生物多様性が育まれ、人間と自然の共生が図られていたとも言えるのです。

松茸はおもにアカマツと共生して育ちます。アカマツはやせた土壌を好むため、たくさんの落ち葉や下草が人間によって利用され、栄養分が失われていたかつての里山には、多くのアカマツが生えていました。つまり、日常的に人間の手が入る里山は、松茸が生育するためには最適な環境だったのです。

ところが、高度経済成長期になると、肥料が草肥から化学肥料へ、燃料が薪炭から石炭・石油へと変化するなかで、利用価値の減少した里山からは人影が消えていきました。そして、人間の手が加わらなくなった里山では、アカマツも松茸も激減していったのです。国産松茸の価格高騰は、日本人と自然の付き合い方の変化を示していると言えるでしょう。

下川 雅弘

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