心頭を滅却すれば火もまた涼し? ―仏教語から「滅」の意味を考える―

間もなく暑い夏を迎えます。梅雨が明ければ連日のように「猛暑日」(気温35℃以上)という言葉を耳にするでしょう。この語は、2007年ごろから気象庁が用いる「予報用語」に加えられたそうです。しかるに、ここ数年の夏の暑さは異常です。日によっては40℃を越える地域もしばしばありました。そして、昨年の8月に「猛暑日」の上をゆく「酷暑日」(気温40℃以上)を「予報用語」に新たに加えました。

先々の猛暑・酷暑のつらさを思うと、頭にとある言葉が浮かびます。
心頭を滅却すれば火もまた涼し――これは、臨済宗の禅僧・快川紹喜(?-1582)が辞世の句に述べた言葉と伝えられています。紹喜は戦国武将・武田信玄(1521-1573)から篤く礼遇され、武田家の菩提寺・甲斐恵林寺の住職をつとめました。その最期は甲斐を攻めた織田信忠(信長の長男)により紹喜の恵林寺は火をかけられ、燃え盛る炎のなかで紹喜は辞世の句としてこの言葉を発したといいます。

そもそも「心頭滅却云々」は、中国宋代の禅僧・圜悟克勤(1063-1135)が著した『碧巌録』(第43則・本則評唱:「滅却心頭火自涼」)に見え、その典故は、晩唐の詩人・杜荀鶴(846?-904?)の詩「夏日題悟空上人院」(『唐風集』巻下:「滅得心中火自涼」)に由来します。『碧巌録』は日本の禅宗でひろく参究されたテキストですので、紹喜も『碧巌録』を通してこの言葉を知っていたはずです。

「心頭云々」は一般的に禅の極意を表わしたものと理解され、手元の字引には「無念無想の境地に至れば、火も熱くは感じなくなる」との解説文がつけられています。ちなみに、「心頭」は二文字で「心」の意(「頭」は名詞句につく接尾辞、ゆえに「心」と「頭」の意ではない)、「滅却」の「却」は動詞「滅」のあとについて意味を強める補語、「滅却」で「すっかり滅し尽くす」となります。

心が「無」となれば、熱さすら感じなくなる――ところが、ふと疑問が沸き起こります。心をすっかり滅し尽くし「無」の境地になると、火(熱さ)と同じく、涼しさも感じないのではないかと。つまり、涼しさを感じ得るということは、涼しさを感受する心がまだ存在している証拠です。
心頭を滅却すれば火もまた涼し……、どのように解釈すべきでしょうか?

「滅」の字は、日本語で「すっかりなくなる」「たやす」の意味で用いるのが常です。中国語でも禅のテキストも意味するところはほぼ同じです。ただ、仏教で「滅」と言った場合、「滅」と漢訳した原語(サンスクリット語)となる「nirodha」(ニローダ)には、「自制する」「制御する」という意味があります。「滅」(nirodha)はお釈迦さまの最初の説法(初転法輪)に「四諦」の教えとして説かれ、中村元博士(1912-1999)は「四諦」の「滅」を「苦しみの超克」(=苦しみを抑制して乗り越える)と翻訳されました(≪Dhammapada≫191.中村元訳『真理のことば・感興のことば』岩波文庫、2000年、37頁参照)。特に原始仏典では「nirodha」を「滅」と漢訳しても、必ずしも日本語のような「すっかりなくなり0(ゼロ)になる」という意味にはならないのです。

こうした仏教の「滅」(nirodha)の意味をもって「心頭滅却云々」を解釈してみると、「みずからの心をきちんと制御(コントロール)すれば、火のような熱いなかにも涼しさを感じられよう」となりましょう。

今年の夏も「猛暑日」の予報が少なくないでしょう。地球の温暖化はそう急には止まりません。ただ、猛暑・酷暑に腹を立て、あたりに「暑い! 暑い!」と怒鳴り散らしてみても、気温は一向に下がりません。むしろ思い通りにならず、心は悶々として暑さに苛まれるばかりです。
心頭を滅却すれば、火もまた涼し――心中にいだく悶々とした暑さを「滅」(コントロール)するスイッチは、ずばり「わが心」にあると言えます。もちろん、熱中症対策としてエアコンのスイッチもオンにすることもお忘れなく……。猛暑日のなかにも心に清凉を感じられる夏を過ごしたいものです。

山本 元隆

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