「ノート」から考える日本人の異文化受容
2022/06/06
新学期を前に、ノートと筆記具を新調したという人も多いでしょう。デジタル化が急速に進む世の中ではありますが、「ノートに書く」という習慣が、簡単になくなることはなさそうです。現在では当たり前の文房具であるノートは、どのように私たちの生活に定着していったのでしょうか。
江戸時代の寺子屋では、半紙をとじたものに文字を書きつけ勉強をしており、これが日本におけるノートの原型といえます。このほかにも、水書の紙や石板など、種々の記録のしかたがあったようですが、明治中期になると、和紙のざら紙をとじたものに鉛筆書きをするようになりました。当時はこれを、「帳面、雑記帳、筆記帳」などのように呼んでいました。
明治36(1903)年の小杉天外『魔風恋風』前編には「筆記帖(ノートブツク)を持つた学生」という記述が見えるように、明治後期には外来語「ノートブック」が使われ始めます。英語の“note”に「筆記帳」の意味はないのですが、「ノートブック」を省略した「ノート」もまもなく広がることとなりました。このころには、和紙から洋紙へ移行していたようです。
ちなみに「大学ノート」は、明治17(1884)年に文具屋の松屋が製造したのがはじまり(当時は和紙)というのが通説ですが、いつごろから「大学ノート」と呼ばれるようになったのかは分かっていません。
ただ、明治43(1910)年1月の『広島高等師範学校附属中学校一覧』を見ると、学生に支給する学用品の一覧表において、「和紙筆記帳」とは別に「大学ノート」の項目がありますから、明治末年までには、洋紙をとじた「大学ノート」が存在していたことが分かります。
大正15(1926)年の竹久夢二の童話「先生の顔」には、「森先生は教壇の上から、葉子が附図の蔭にかくれて、ノオトへ戯書をしてゐるのを見つけた。」という文をはじめ、「ノート」という語が多用されています。大正期までには、「ノート」が完全に定着したとみてよさそうです。
文明開化後、多くの西洋の文化が流入しましたが、「ノート」は語形も含め、すみやかに世の中に定着していったように見受けられます。もともと半紙や和紙をとじたものがあったように、日本人には洋紙のノートを受け入れる素地があったのでしょう。現在でも、海外の文化が日本に紹介された際に、それが日本における定番のものとなることもあれば、一過性の流行で終わってしまうこともありますが、「定番」になるものには、古来の日本文化と根底で相通ずるものがあるのではないか……と思うのです。
石川 創