『東京年中行事』に見る「灌仏会」と「降誕会」

明治44年(1911)刊行の『東京年中行事』(若月紫蘭著)は、その名のとおり東京市井で年々に繰り返しおこなわれてきた伝統行事を集めた歳時記です。内容は雛祭や端午、七夕といった馴染みのある行事のほかに、七福神詣(元旦から七日間)や閻魔参(1月16日)、富士祭(富士山の山開き)などあまり聞き慣れない催事、さらには「土用と鰻」(7月)「栗・柿・松茸」(9月)「餅搗と餅店」(12月)など食べものに至るまで、明治期の東京の“日常”が事細かに書き綴られています。その「はしがき」を読みますと、明治維新後に廃れかけていた日本の伝統行事をみずから拾い集め、行事の内容や由来、特色を後世に伝え残そうとする紫蘭の“願い”が見て取れます。

陽気おだやかな春4月の年中行事には、「観桜御宴」(国際親善を目的とした皇室主催の“お花見”)や「鶯啼合大会」(ウグイスの“のど自慢”)といった“春らしい行事”が並んでいます。そのなかに「灌仏会」(かんぶつえ)「降誕会」(ごうたんえ)という名の行事が見えます。いずれも4月8日のお釈迦さまの誕生にちなんだ仏教行事ですが、紫蘭は「(灌仏会と降誕会の)儀式は同じようであってしかも別であり、別であっても離るべからざるもの」と曖昧なコメントを付けています。なぜでしょう?

  • 花御堂と天地を指さす誕生仏
    花御堂と天地を指さす誕生仏

「灌仏会」は「浴仏会」(よくぶつえ)ともいいます。天地を指さす童形の誕生仏に甘茶を灌(そそ)ぐ「灌仏」は、お釈迦さま誕生のとき、九龍が天空から清らかな水をそそいで産湯につかわせたという伝説にもとづいています。一方、「降誕会」は、お釈迦さまが兜率天(とそつてん)から白象に化して母親(マーヤ夫人)の胎内に降り立ち誕生したという故事にちなみ、その名が付けられました。命名の由来は異なりますが、ともにお釈迦さまの誕生をお祝いする行事であることに変わりはありません。

ただ、それぞれの歴史は大きく異なります。『東京年中行事』には、日本における「灌仏会」の事始めは仁明天皇の承知4年(840)、かたや「降誕会」は明治25年(1892)とあります。つまり、双方には一千年もの隔たりがあるのです。また、「灌仏会」が古来より寺院の仏教行事(法要)として営まれてきたのに対し、「降誕会」は都下のいくつかの学校に組織された「仏教青年会」が一同に集まり、「神田一つ橋の大学講義堂」ではじめての「降誕会」が開催されました。

  • 本学園の園児・生徒・学生による「灌仏」
    本学園の園児・生徒・学生による「灌仏」

それでも百花でかざった御堂に「灌仏」するスタイルは、「灌仏会」と「降誕会」に共通していたようです。今日、この行事はひろく「花まつり」と称され、多くの人に親しまれています。そして、ここ“駒女”でも「花まつり」は昭和2年(1927)の建学以来の伝統行事となっています。
本学園の式典では、幼稚園児や生徒学生が童形のお釈迦さまに甘茶を灌ぎ、その誕生をお祝いします。学校教育の一環として学生らと一緒におこなう本学園の「花まつり」は、明治25年に始まった「降誕会」の流れを汲んでいるのでしょう。紫蘭が『東京年中行事』に書き留めた“日本文化の伝統”は、今でも“駒女の花まつり”に脈々と受け継がれているといえます。

『東京年中行事』が著されて110年あまり、明治から令和へと幾つもの改号がありました。紫蘭が書き残した年中行事も、時代とともに形を変えたり、あるいは無くなったりしたものも少なくないでしょう。しかし、私たちは『東京年中行事』という書物を通じて、紫蘭が見聞した伝統行事の様子や由来を知り、また、令和の世に継承された年中行事を直に見ることができます。古今に伝えられた日本の年中行事には、日本文化の“心”が過分に込められています。身近にある何気ない年中行事でも、知れば知るほど、見れば見るほど、日本文化のいろいろな発見があることでしょう。

山本 元隆

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