お釈迦さまのご命日「涅槃会」での“おもてなし”

「今は昔」の書き出しで有名な『今昔物語集』に「山階寺にて涅槃会を行うこと」(巻十二)という一段があります。「山階寺(やましなでら)」は現在の奈良市にある法相宗(ほっそうしゅう)本山興福寺の旧称(もと京都市山科区にあり)、「涅槃会(ねはんえ)」はお釈迦さまのご命日(二月十五日)におこなわれる仏教行事です。今回は「山階寺涅槃会」の説話を取り上げ、日本の文化について考えてみたいと思います。

山階寺に寿広(生没年不詳、七~八世紀ごろの人)という和尚さんがいました。寿広はかつて尾張国(現在の愛知県西部)の書生(書記官)の役にありましたが、あるとき“仏教の道”を志して山階寺の和尚さんになりました。寿広は熱心に仏さまの教えを学ぶとともに、音楽に精通していたので、山階寺の疎略な「涅槃会」に伎楽(舞伎と音楽)を加えて「極楽浄土」を思わせる荘厳な法要に調えました。

  • 駒沢学園の大涅槃図
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さて、山階寺涅槃会の荘厳さは、寿広がかつて赴任していた尾張国の熱田明神の耳にも伝わりました。熱田明神は涅槃会を聴聞するために、使いの童子を大和国(現在の奈良県)に向わせました。ところが大和に入る道々では、涅槃会のために帝釈天や四大天王など仏教の守護神が厳重な警備をおこなっていました。現代的に言えば、「特別催事のための通行規制」が厳しく布かれた状態でしょうか。そのせいもあって童子は二月十五日の涅槃会に間に合いませんでした。

翌十六日、一日遅れで到着した童子は、寿広に熱田明神の涅槃会聴聞の願いを伝えました。寿広はその御心に深く共感し、「熱田の明神の御為に殊に志して、またこの(涅槃)会をおこなわん」と、もう一度この法要をおこないました。以来、山階寺では涅槃会にちなみ、二月十五日と十六日の二日間にわたって法要をおこなうようになったと言います。

『今昔物語集』では人々から山階寺の涅槃会は「日本第一の法会」と讃えられたと伝えています。ただ、この説話を通して『今昔物語集』の作者が伝えたかったのは、山階寺涅槃会の荘厳さよりも、寿広という一人の和尚さんが熱田明神の涅槃会聴聞の願いを受け入れた点にあると感じます。

熱田明神は三種の神器の一つ「草薙の剣」(くさなぎのつるぎ)を祀る熱田神宮(名古屋市熱田区)の祭神です。一方、涅槃会はお釈迦さまのご命日を供養する仏教儀式です。両者の礼拝作法を取ってみても、日本(神道)の「かしわ手」とインド(仏教)の「合掌」ではだいぶ異なります。しかし、寿広は儀礼文化の違いをもって熱田明神の申し出を拒むことなく、一日遅れの法要を改めておこないました。神と仏が親しく融合し得る“舞台”を臨機応変に作り出した寿広の対応は、見事な“おもてなし”と言えます。

「山階寺にて涅槃会を行う語(こと)」に見られるように、『今昔物語集』には随処に日本の仏教文化が見て取れます。いにしえの作品に触れ日本文化の“心”を学ぶことは、今の世にその“心”を継承することにほかなりません。お釈迦さまの涅槃から二千五百余年、時は移り世は変わりゆきますが、『今昔物語集』に筆録された寿広和尚の“おもてなし”は、今も昔も変わらぬ日本文化の“心”としてひろく語り継いでほしいものです。

山本 元隆

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