令和の時代を迎えて

安藤嘉則


平成の時代が終わり、いよいよ令和の時代がはじまります。そこで新しい時代の始まりにちなみ、夏目漱石の「点頭録」を紹介します。この「点頭録」は漱石が大正五年の新年に朝日新聞に連載した随筆です。
「また正月が来た。振り返ると過去がまるで夢のように見える。何時の間にこう年齢を取ったものか不思議な位である。此の感じをもう少し強めると、過去は夢としてさえ存在しなくなる。全くの無になってしまう。・・・これをもっとむずかしい哲学的な言葉で云うと、畢竟ずるに〔=つまるところ〕過去は一の仮象に過ぎないという事にもなる。金剛経にある過去心は不可得なりという意義にも通ずるかも知れない。・・・こういう見地から我というものを解釈したら、いくら正月が来ても、自分は決して年齢を取るはずがないのである。年齢を取るように見えるのは、全く暦と鏡の仕業で、その暦も鏡も実は無に等しいのである。・・・自分は点頭録の最初にこれだけの事を云って置かないと気が済まなくなった。」

*引用は旧仮名遣いを改めています。(「やうに」→「ように」等)。・・・は中略部分。
こんな難しい文章を漱石は朝日新聞に書いています。しかし漱石がお経を引用しているように、この文章も仏教の空(くう)のまなざしで見ると理解できるかもしれません。
私たちは変わらない「私」があると当たり前のように思っています。しかし昨日の「私」と今日の「私」は99.9%同じであっても、厳密には肉体的にも精神的にも違う存在です。そしてお金を何億積んでも昨日の「私」に戻ることはできません。私たちは変わらぬ「私」(たとえば「山田花子」という実体)があるような気がするけれど、そんなものはないというのが、仏教の空(ゼロ)の思想です。私が生きているのは、今というこの瞬間だけ。これはまぎれもない事実で、こうした見地からみると、今という時間しか私は存在しないのだから、正月が来ても年をとらないのです。
しかし現実の私たちを振り返りますと、肉体的に今を生きているけれど、トラウマなどといって、10年も前の過去の経験が心に残り、今日の私を苦しめています。また、未来への不安やプレッシャーに打ち負かされる人もいます。心はなかなか今を生きられないのです。仏教の空のメッセージが発信しているのは、どこにもない過去や未来にとらわれず、今の自分を生きよということです。
ところで漱石は四十代で亡くなっています。あの立派なひげを蓄えた写真を思い浮かべると、還暦を過ぎているようなイメージを抱きますが、正確には四十九才で生涯を終えています。実はこの「点頭録」は漱石四十九才、すなわち没年の元旦の文章なのです。これは漱石の末期(まつご)の眼差しで書かれた、いわば遺言のような文章ではないかと私は感じています。

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