【日本文化学科】「研究余滴」6

日本文化学科 千葉 公慈

大学教育における仏教学研究とは

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仏教伝来から1500年が経ち、今、日本の仏教界は大きな転換期を迎えている。インターネットの登場や世界宗教の変動は、もちろん人類史上の画期的な出来事であるが、これらの世界規模ともいえる生活環境の激変に加え、日本社会における少子高齢の傾向が拍車をかけ、私たち日本人の価値観は、否応なく変革を余儀なくされている。

 こうした急激な日本社会における価値観の転換と、時代的ともいえるその思想的要求に対し、仏教学は何をなし得るであろうか。さらには仏教学という枠組みにとどまらず、大学教育における学問研究は、一体何を提示し得るのであろうか。

自身の学の膚浅を顧みず管見を述べれば、現代的な問題に対する突破口は先人の知恵による他はないだろう。そこで草庵の書棚を手当たり次第に斜め読みしたところ、戦後間もない頃の津田左右吉博士による次の一文に出会った。

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 [今の大学教育における主たる問題は、]学問とは既定の知識を他から学ぶものだ、という昔風の考えが何となく学生の間に残っていることです。大学の講義というものは、ある学問について過去の学者の業績や研究を示し、新しく研究すべき余地がどこにあるのか、研究する出発点をどこに置くべきかを説いて、学生たちに学習意欲を起こさせ、学生自らの研究を手引きしてあげるところに主な任務があるのです。講義する教員の意見や学説を伝えるのが主旨ではないのです。ところが学生たちは、一定の学説なり研究結果について、結論として正否を聞かないと心配するらしいのです。諸説があるとき、どうして甲の説が生じたのか、どう考えて甲とは違った乙の説が別に生じたのか、それを理解することが何より大切であるのに、結論として学説のどちらが良いか悪いかという判断だけを聞きたがるのです。しかしそれらは、他人から聞くべきことではなくして、学生みずから考えなければならないことなのです。
(津田左右吉『学問の本質と現代の思想』岩波書店、昭和23年、p.251の趣意)

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まさに仏教学研究も然りと諒解すべき現代的な指摘であると思われる。それは仏教学とは、まさに個人の見解によって結論づけられるべき思想では断じてないからである。

これからの社会は、当然これからの若者自身によって創り上げられる社会である。その若者に向かい立つ現代の大学人のひとりとして津田博士の言葉をかみしめるとき、新学期のシーズンを迎えて、その責任の重さを実感する次第である。

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