【日本文化学科】「研究余滴」5

日本文化学科 下川 雅弘

早春の頃、「ホーホケキョ」という美しいさえずりが、多摩丘陵にも響き始めます。声の主である鶯は、春の訪れを知らせてくれるため、春告鳥(はるつげどり)の別名があり、また、その鳴き声が「法華経」と聞こえることから、経読鳥(きょうよみどり)とも呼ばれてきました。

さて、戦国時代の京都を描いた『上杉本 洛中洛外図屏風』を観察すると、ある武家邸の庭先に、鶯を入れた2つの鳥かごが向かい合わせに据えられ、主人と思われる者を中心に数名の人物が、これをじっと眺めている姿が見出されます。春の光景として描かれたこの場面は、彼らが鶯合わせに興じる様子です。鶯合わせとは、一般に鶯の鳴き声の優劣を競う春先の遊びとされ、南北朝時代には佐々木道誉などの婆娑羅な人々に好まれたことが、『太平記』に描かれています。その後も明治時代に至るまで、富裕な好事家たちの贅沢な娯楽として流行しました。

戦国時代に編纂された『三十二番職人歌合』には、鳥刺し・鶯飼いという職人が紹介されています。ここに描かれた鳥刺しは、右手に竹竿、左手に鶯を持ち、鶯飼いは、鶯の入った鳥かごを手にこれを見つめ、また、鶯合わせを詠んだ歌が添えられています。鳥刺しとは、鳥もちを付けた竹竿により小鳥を捕る猟師で、鶯飼いとは、鳥刺しが捕らえた鶯の飼育・販売員です。『上杉本 洛中洛外図屏風』が描かれた戦国時代には、これらが生業となるほど、鶯合わせが催されていたのでしょう。

ところが、戦国時代を含む中世の鶯合わせが、実際にどのような手順で行われていたのかを、詳しく伝える文献史料はほとんどありません。たとえば、伏見宮貞成親王が残した『看聞日記』の永享7年(1435)5月1日・3日条に、「早朝、鶯合、一方鳴かず興なきなり」「朝、鶯合、行豊朝臣、重賢持参す、行豊朝臣の鳥勝つ」といった記載があることから、鶯合わせが、先に鳴いた鶯の勝ちといった単純なものではなく、鳴き声の優劣を競っていたことは確かでしょう。けれども、どのような鳴き方が優良とされたのか、その勝敗がどのように判定されたのか、鳴き声だけが評価の対象であったのか、鶯の見た目の美しさのような要素が加味されることはなかったのかなど、肝心な部分は分からないことばかりなのです。

日本には古くから、犬合わせ・鶏合わせ・貝合わせなど、生き物を使ったさまざまな合わせ物の文化がありました。このうち犬合わせ・鶏合わせは、それぞれ闘犬・闘鶏のことで、生き物同士を実際に闘わせる競技と考えられています(ただし、場合によっては闘わせない鶏合わせも存在したようです)。戦国時代の鶯合わせに格闘の要素がなかったことは、『上杉本 洛中洛外図屏風』に描かれている鶯を入れた2つの鳥かごの距離が、一定に保たれていることからも、まず間違いないでしょう。

つぎの貝合わせは、もともと持ち寄った貝自体の美しさを比べ合う遊びで、これに和歌を添え、その優劣も判定に加味されていました。したがって、鶯合わせの場合も、可能性に過ぎませんが、和歌を伴っていたと考えても不思議はないのです。また、『上杉本 洛中洛外図屏風』には、鳥刺しが梅の木の近くで、小鳥を捕獲しようとしている場面が描かれています。この鳥刺しは鳥もちを付けた竹竿を手にしていることから、羽が抜けて鶯の外見が悪くなることは、あまり気にしていなかったと思われます。つまり、戦国時代の鶯合わせに関する限り、貝合わせのようにそれ自体の見た目の美しさを競うことは、おそらくなかったようです。

明治時代の鶯合わせに関するいくつかの記録によると、評者による投票や、審査員による採点で鳴き声の優劣が決められ、あるいは、鳥かごから放鳥して最初に盆栽の梅にとまったものを勝ちとするなど、さまざまなやり方が確認されます。戦国時代の鶯合わせについても、こうした後世の文献史料から、ある程度のことは想像できますが、やはりその詳細な手順を特定することは、きわめて困難と言わざるを得ません。

過去の文化の実態解明に少しでも近づくためには、些細な証拠史料を見逃さずに収集し、これらを丹念に分析するといった、地道な努力を積み重ねるしかないのです。里山に響く鶯の調べに耳を傾け、その鳴き声にどれほどの優劣があるのかを、自分の耳で確かめてみることも、案外、こうした文化史解明の一助となるかも知れません。

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