【日本文化学科】「研究余滴」2

日本文化学科 三田誠司

私は今から1300年ほど昔に編纂された『万葉集』に載せられた歌を研究しています。年末年始のシーズンになると、必ず授業で紹介するのが『万葉集』の巻末を飾る次の歌です。

あらたしき年の初めの初春の今日降る雪のいや頻(し)け吉事(よごと)

この歌は、天平宝字3年1月1日に、因幡国の国司・郡司らを集めて新年の宴が開かれた時に因幡守であった大伴家持(おおとものやかもち)が披露した一首です。歌は「新しい年の初めの、初春の今日、降りしきる雪のように、ますます重なれ、めでたい出来事よ。」というほどの意味。
あまり難しい表現はない歌なのですが、結句には少し解説が必要でしょう。まず、「いや」は「いよ」とも言います。現代では「いよいよ」と二つ重ねた形で使われるのが普通ですね。「一層、ますます」というぐらいの意味です。次の「頻け(「しけ」と読みます)」は、出来事が何度も重なる意味の「頻く」の命令形。最後の「吉事(よごと)」は「よい出来事」という意味ですが、「こと」は「事」も「言」も意味しますので、「よい言葉」という意味にも読み取れます。
因幡国での新年の宴に参集した人々の幸福を願う歌として、「よごと」は「よい出来事」という意味で受け取るべきでしょう。けれども、『万葉集』の巻末がこの一首で閉じられていることを考えると、『万葉集』以後にもすばらしい言葉=歌がどんどん作られますように、という願いを込めた歌のようにも思えてきます。大伴家持は『万葉集』を編纂した人と考えられているので、この考え方も魅力的です。

これはどちらが正しいというものではなさそうです。古代人は、出来事が言葉となり、言葉が出来事となると考えていました。そういえば現代でも、年末には「今年の漢字」とか「流行語大賞」など、一年を象徴する言葉を決めるイベントがよく行われます。「事」を「言」にして記憶に残す営みと言うことができるでしょう。
言葉は「実」の世界を映し出す、いわば「虚」の存在です。「虚」の存在というと、なんだか頼りないあやふやなもののようですね。でも、私たちは「実」の存在だけで生きているわけではありません。世の中には「美しいもの」や「楽しいもの」がありますが、それはそう感じる「私」がいるからこそです。「私」とは無縁に「美しいもの」や「楽しいもの」が実体として存在するわけではありません。だから、ある人が美しいと感じるものであっても、別の人には美しく思われないということも起こります。という意味では、「美しさ」「楽しさ」は実体を伴わない「虚」の存在ですが、その価値を認めない人はおそらくいないでしょう。
文学をはじめ人文科学は「虚学」と呼ばれることがあります。しかし、それはあやふやな学問・実体を伴わない学問というわけでは断じてありません。何が美しく、何が真実であり、何が善きものであるか。それを追求するのが「虚学」の役割です。私たち「人間」のあり方を見つめる大事な学問分野なのだと私は考えます。
さて、これから雪の多くなる時期です。例年、駒沢女子大学のある多摩丘陵では都心よりも雪が多いように感じます。都会では交通機関が麻痺するなど厄介な雪ですが、私たちも家持にならって、ひととき、降る雪に心を清めつつ「いや頻け吉事」と願ってみようではありませんか。

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