初詣の文化史

日本文化学科 皆川 義孝

皆さんは今年のお正月、どちらの“初詣”に出かけられましたか?初詣とは、もともと住んでいる地域の氏神や、その年の縁起のよい方角にある神社にお参りするものでした。また夜を徹して元旦の朝を迎える風習は、“年神様(歳徳神(としとくじん))”を迎えるにあたり、大晦日の夜を寝ずに過ごしたしきたりの名残なのです。

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毎年、初詣の参拝者が多いことで知られているのは、東京周辺では明治神宮、成田山新勝寺、川崎大師ではないでしょうか。明治神宮は大正9年(1920)に創建された神社ですが、数ある寺院の中で、成田山と川崎大師がランクインしているはなぜでしょう。それは、両寺院が江戸時代に、百万都市といわれた江戸の町で行っていた布教活動が、大きく関わっているためです。

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成田山新勝寺は、千葉県成田市にある真言宗智山派の寺院です。天慶3年(940)に創建された寺院で、本尊は空海が刻したという不動明王です。この成田山新勝寺は、元禄時代以降、江戸っ子たちから信仰される寺院へと変わっていきます。それは、元禄16年(1703)にはじめて、江戸の深川の富岡八幡宮の別当寺である永代寺を会場に、本尊の御開帳を行いました。その時、成田山の信者であった歌舞伎俳優の初代市川団十郎が、成田不動の舞台を行い、その結果、永代寺へ多くの参詣者が訪れたといいます。これ以降、成田山が多くの江戸っ子から信仰される寺院となっていきました。

つぎに川崎大師は、神奈川県川崎市にある真言宗智山派の寺院で、正式名称は金剛山平間寺といいます。川崎大師が、お正月にたくさんの参詣者で賑わうようになったのは、ここ200年ほどのことです。寛政8年(1796)に11代将軍の徳川家斉が、はじめて24歳の前厄の厄除けで、この寺を参詣しました。将軍じきじきの参詣でもあり、川崎大師の名が江戸っ子の話題となったのです。そして、川崎大師の地位を不動のものとしたのが、家斉が41歳の前厄祈願のために当地を参詣したことでした。この参詣の直前、川崎大師の34世隆円上人が逝去されるアクシデントがありましたが、川崎大師側は家斉に隆円上人が家斉の身代わりとなり死去したと伝えたのです。すると家斉は大変感激し、同寺に寺領50石を与えるなど、手厚く保護したというわけです。この出来事が契機となり、川崎大師が江戸っ子たちからも信仰される寺院となりました。

このように、成田山と川崎大師への初詣で客が多い背景には、江戸時代に百万都市と言われた江戸の町での、両寺の熱心な布教活動があったのです。

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