「学ぶ」ということ

みなさんこんにちは。本年度から日本文化学科の一員になりました松村良です。専門は日本近代文学で、昭和戦前期の小説の研究をしております。ご挨拶に代えて、小説の中に出てくる「学び」の話をしたいと思います。

「山月記」で有名な中島敦の小説に、子路という人物を描いた「弟子」という作品があります。古代中国の思想・儒教の創始者として名高い孔子の弟子のひとりで、実在の人物です。この子路が、孔子に弟子入りするところから始まり、最後に衛という国の政変に巻き込まれて壮絶な死を遂げるまでの話です。弟子になった子路は、しかし孔子の教えをなかなか受けつけません。師の教えを守ることよりも、自分の信念を貫くことが大事だと強く思っています。一方孔子は、この扱いにくい弟子を叱りつつ、愛情を込めて見守っています。やがて子路も年を取り、孔子の高弟として立派な政治家になりますが、結局、自分の信念を貫いたために殺されます。「見よ! 君子は、冠を、正しうして、死ぬものだぞ!」と最期に子路は叫びますが、儒者としての自覚と、自分の信念とが一体化したこの言葉は、やはり孔子の教えとは隔たっています。

それでは、子路は孔子から正しく学ばなかったのかというと、そんなことはありません。子路は彼なりに孔子から多くの「学び」を得ました。師の教えを正しく実行できず、悪戦苦闘と自己流の解釈を繰り返しながらも、彼の成長していく姿が「弟子」という作品には描かれています。みなさんも、この大学で素晴らしい先生に出会って、たとえその先生と同じ「高み」に到達できなくても、自分なりに「学ぶ」ことはできるはずです。「学び」とは、先生が学生に与えるものではなく、学生が先生の中からそれぞれ自分にとって大事なものを見つけ出すことだからです。

(松村 良)

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