心を照らすともし火─仏教と照明のお話─

2014年のノーベル物理学賞に、青色発光ダイオード(LED)の開発と実用化に貢献した赤崎勇、天野浩、中村修二の各氏が選ばれた。電圧をかけると青白く光るその半導体は、私たちにとってはまだ“節電のできる高価な電球”のイメージであるが、これからの生活を一変させるほどの大きな可能性を含んでいるともいわれ、文字通り私たちの未来を照らす光でもある。

仏教においても照明は、もっとも重要な意味合いをもっている。初期仏典によれば、ブッダのために灯明をともすことは、とりわけ徳が高い行為と讃えられた。その例が「貧者の一灯」の故事である。富んだ王たちが献じる万灯が次々に風に消えゆく中で、ひとりの名もない老女の捧げた一灯だけが、決して消えることはなかったという有名な物語である。

  • お寺の飾りが西洋に伝わってシャンデリアとなったのです
    お寺の飾りが西洋に伝わって
    シャンデリアとなったのです

混迷する世俗にも似た闇夜は、灯明によって照らされる。そのことから灯明はそのまま悟りの智慧(ちえ)に喩えられ、やがて単なる照明具の意味を超えて、灯火そのものが祈りの対象となっていく。神社仏閣に数多くの石灯籠が奉納されるのも、照明のみを目的とはしないことを物語っている。

ちなみに仏教儀式で灯明といえば、ロウソクを想起する方が多いだろう。しかし江戸時代までは油を使用するタイプの照明が長く主流であった。ロウソクが日本にもたらされるのは奈良時代とされるが、ミツバチの巣を直接芯に巻き付ける蜜ロウソクは希少であったため、さらには遣唐使の廃止によって国内生産に頼らなければならない事情もあって、やがて和蝋燭(わろうそく)が開発されることになった。製法はハゼノキから採れる木蝋(もくろう)をイグサと和紙で作った芯に塗っていくものであるが、これもたいへん貴重なために、庶民にとっては高嶺の花であった。したがって現在のように普及するのは、西洋ロウソクになった明治時代以降である。

先日、とある博物館で国宝の仏像を拝観する機会を得た。斜め上方からダウンライトに照らし出されたその面影は、一見神々しくもあったが、おそらくは仏師の意図とは乖離したものだろうと思われた。仏師はかならず参拝する者のまなざしと、本来あるべき灯明の配置を意識しながら彫り上げるものだからである。光はその目的や用途、そして意義深さを念頭に置かなければ、照らされるものの真の姿を顕現させることはできないのである。

「一隅を照らす、これすなはち国宝なり」    最澄『山家学生式』

世のかたすみに、ほんの少しの光でいい。生きている間にささやかな何かを照らすことができたのなら…。最澄はそのような人こそ“国の宝”なのだという。光を生み出す者たちは、いつも暗闇の中で、人知れず大切なものを照らし続けているのである。

(日本文化学科 千葉 公慈)

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