「振り返れば、富士」

関東にある学校の校歌には、かなりの確率で富士山が登場する。本学も例外ではない。

千古の雪をいただける
不二の高嶺を見晴かし

しかし残念なことに、かつては校舎から富士山を見ることができた都内の学校の多くは、周囲の建物の高層化で、今では富士山を見ることができない。校歌はそのままでも現実は変わり、「校歌に偽りあり」となってしまった。

そんな中で、今なお、正門から富士山を拝むことのできる本学は、貴重な存在と言える。

  • 「振り返れば、富士」

特に冬の晴れた朝、正門までの坂道を登って振り返った時、そこには荘厳な富士山の姿が待っている。はるかに富士の高嶺を仰いだ時に生じる心の変化は、清々しく、ポジティブで、開放的だ。それは、日常の雑事や心配事をしばし忘れさせ、崇高なものの実在を信じさせてくれる。多くの人々が異口同音に「心が洗われるようだ」と語るある種のカタルシス(浄化)体験、この不思議な力が、江戸時代に「富士講」とよばれる民衆信仰の大流行を引き起こしたのではないだろうか。

ところが、朝の忙しさもわからないではないが、学生や生徒諸君の大半は、あまり富士山に関心を示さない。私が上のような写真を撮っていても、守衛さんと並んで、富士山を眺めていても、慌ただしく教室へ急ぐ足を止めようとはしない。決して、振り返らない。
もちろん、彼女たちの多くは、正門から富士山が見えることを「知っている」のだろう。(噂では、何年間も通っていながら、富士山が見えることを知らず卒業していく人もいるらしいが・・・)ただ、「知っている」ことと、実際に見るという「体験」とは違う。少なくとも、その日、その時、「心が洗われる」ようなカタルシスを体験することはできない。

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彼女たちもまた時代の子なのだろうか。「効率」と「合理主義」は近代を特徴づける時代精神だ。足を止め、振り返って、しばし富士の姿に見とれる時間は、たとえわずかな時間であっても、効率を重んじる彼女たちから見れば単なる「無駄」な時間なのかもしれない。なぜなら、彼女たちは既に富士山が見えるということを「知っている」のだから。

そういえば、彼女たちの「効率主義」はいたるところに拡がりつつある。キャンパス内を移動する時に、彼女たちが遠回りをしたり、庭を散歩したり、という様子をほとんど見かけることがない。キャンパスの奥に広がる貴重な手つかずの自然、サンクチュアリの森に分け入ることもめったにない。私は、幼稚園以来、回り道や寄り道の常習犯で、今でも食堂の帰りにお地蔵さんを拝みに寄ったりするのだが、この15年間、この道で、一度も学生に出会ったことがないことに気づいた。
くどいようだが、もちろん、ほとんどの学生諸君は、照心館の裏に庭が広がっていて、そこにお地蔵様が並んでいることを「知っている」。知っているから、それで充分。だから行かないのだ。一部の学生諸子は、これを自分自身の人生にまで応用しようとする。社会についても、仕事についても、結婚生活についても、「知っている」から、それで充分。

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情報化の進展は、さらに「知っている」ことを可能にする。多くの若者は、ますます「無駄」なことをやらなくなるだろう。しかし、「無駄」の存在しないところに「文化」や「芸術」も「創造性」もありはしないのだ。全体主義的な実験の歴史がそれを証明している。

ちょっと立ち止まって、振り向いてみてはどうだろうか。そこには、美しい富士山が悠然と貴女を待っている。

(富田 隆)

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