卒業論文のころ

ゼミ生諸姉といくつかの春秋をともに重ねていくと、ふとした何気ない瞬間に、その人間的成長にハッとさせられることがあります。ゼミで発した一言だったり、研究室での立ち居振る舞や、就職活動中のスーツ姿であったり、決定的瞬間は学生一人ひとりによってさまざまです。本人にその自覚はないかもしれませんが、それなりの時間をともに過ごしてきた立場からみると、「そんな発言ができるようになったのか」「いつのまにか“おとな”の表情をみせるようになっている」などと、その成長に気付き、驚かされ、感動を覚えたりもします。卒業論文の執筆も、しばしば、そんな発見と出会うシーンのひとつです。

  • 卒業論文のころ

人間関係学科のカリキュラムにおいて、「卒業論文」の科目は必修ではありません。しかし、大学生活4年間、ひいては、学校生活16年間の集大成として卒業論文に取り組むことの意義はきわめて大きいと私は考えます。その確信をもとに、ゼミ生には是非とも「卒業論文」を、あるいは、それに代わる“ゼミ論文”を書き上げて卒業することを勧めています。

たしかに、学生たちにとって卒論・ゼミ論は、安易な覚悟では乗り越えることのできない難題です。テーマの選定や文献探しを誰かに頼ることはできません。なんとか関連資料や先行研究を探し当てたとしても、それらを緻密に、しかも幅広く読み込まねばなりません。そして何よりも、それらの研究知見や自分なりの見解を何十枚もの紙幅にまとめる作業が求められます(「こんなに長い文章を書くのは人生で初めてだ」という学生がほとんどです)。
しかし、そういった大変さばかりに目を奪われてしまうと、卒論の本質を見誤ることになりかねません。人文・社会科学系の論文の場合、テーマ選びは、自分自身がこの世界とどう向き合ってきたのかという、自己との対話が原点となります。「あなた方が20年間生きてきたなかで、もっともこだわってきたものは何か」、やや大げさに、「これを知らずしてあの世には逝けない、と思えるようなテーマは何か」という発想で考えなさい、とゼミ生たちを鼓舞します。そして、「20歳過ぎの自分が、大学という世界でこの時代に確かに生きていたことの“証し”を残すのだ」「あなた方は“作品”を生み出すのだ」と言って執筆を励まします。

朝夕の冷え込みが本格的になる頃、いまだなかなか「エンジンがかからない」者が多いなかで、いっぽう、目つきが鋭くなり、“物書き”が身を削って仕事に打ち込んでいるときのような徹夜明けの顔で、10ページ前後に達した草稿を中間発表に持ち込むゼミ生が現れ始めます。現場に二度三度、足を運んでフィールドワーク論文をまとめ上げる学生や、厚さ数センチにおよぶ執筆メモを残した学生も過去にいました。「ずっと部屋に閉じこもる生活を続けていたので、親が『大丈夫か』と心配して声をかけてきた」というエピソードを耳にしたこともあります。
ゼミ生たちのそんな情熱と真剣さにほだされ、私としてもそれに応えたいと、ゼミ生全員の卒論・ゼミ論を3年前から「卒業論文集」にまとめ始めました(写真)。学術的にみれば、論文と呼ぶには、まだ途に就いたばかりといった水準のものがほとんどです。しかし、それらを書き上げた本人たちにとって、あるいはまた、ゼミ生たちのそこに至るまでの道のりとスタートラインを知る者であれば、おそらくこれを勲章ものの作品集と受け取ってくれるだろう…、そう信じたいと思います。

学生生活の最後に、「人生初」と云うに匹敵するような難事に挑み、それを成し遂げ、ときに、驚くような成長の軌跡を見せつけて卒業していくゼミ生たち…。今年もまた、その瞬間に立ち会えることを誇りに思います。必ずしも栄光の軌跡だけではありません。この論文集を手渡されて、「見たくもない」という反応を示すゼミ生もいるだろうと思います。けれども、もしもその距離感が、いくばくなりとも、何か大切な人生の節目で力を出し切らないうちに“降りて”しまった、あるいは、そこを避けて通ってしまったことの敗北感や後ろめたさとやがて結びつくものだとするならば、それはそれで、教育的意義としては無駄にはならないと思うのです。

卒業論文をめぐって、今年はゼミ生諸姉のどのようなドラマと出会えるか、ひそかに心踊らされるこの頃です。

(榎本 環)

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