休日の散歩――谷根(千)を歩いて――

今年5月の連休中の一日、 学生時代地下鉄千代田線を使い通学していたこともあり、 昔を懐かしみ、日暮里から千駄木、谷中、根津、上野辺りに散歩に出かけました。この地域は現在「谷根千(やねせん)」と呼ばれ人気のあるスポットです。もっとも、私の学生時代にはこのような呼び名はついておりませんでした。「谷根千」といわれるこの地域ですが、江戸時代には、谷中は寺町、千駄木は武家町、根津は下町とその性格は異なっていました。戦災で被害を受けることも少なかったので、現在では、昭和の面影を残す趣のある街ということで人気を博しています。

まず驚かされたのは人の多さでした。9時半頃日暮里の駅を降り、谷中銀座商店街方面へと歩き出したのですが、谷根千案内パンフレットをもった人々がぞろぞろと道の両側を歩いて行きます。谷中銀座商店街は、駅からほんの数分の距離で、「夕焼けだんだん」という階段を降りてせいぜい100メートル程度の小さな商店街です。ほとんどの人は、途中のお寺などには興味も示さず、おそらくテレビや雑誌などで紹介されたせんべい屋さん、コロッケなどの揚げ物屋さんを探しています。それらの店の多くは10時から開店と貼り紙がしてあるのですが、店の前に人だかりがしています。既にその店先で行列をして開店を待っている人も多く見受けられました。

  • 谷根(千)を歩いて

谷中という地名は、本郷台と上野台の谷間に位置することから名付けられたといわれています。江戸時代には、寛永寺もあり、また1600年代半ばの江戸市中の大火の後、多くのお寺がこの地に引っ越してきたこともあり、寺町と呼ばれることもありました。現在も70ほどの寺院が集中しています。彰義隊と明治政府軍が戦った上野戦争で罹災したものの、関東大震災や第二次世界大戦では被害が少なく、昔ながらの建物や街並みが残されています。それだけに、昭和の情緒を求めて多くの人が訪れるのだと思います。

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谷中銀座を通り抜け左に道をとると、千代田線千駄木の駅があります。この辺り一帯が、千駄木地区ですが、今回はこの地域を散策することなく、根津へ向かいました。
その際、歴史的にも著名人のお墓が数多く存在する谷中墓地や寛永寺輪王閣墓地を通らず、築地塀が残っている観音寺から山岡鉄舟、三遊亭円朝のお墓がある全生庵、大名時計博物館を訪れるコースをとりました。

根津は、根津神社の門前町として開けた町です。お寺の多い谷中や上野からも近く、今ではその面影は全く窺えませんが、色街という一面もあったようです。根津神社ではちょうどツツジ祭りが開催されていたこともあり人出が多く、神社本殿に参拝するのに門外まで30分ほど行列に並び待たなければならない混雑振りでした。境内地は、屋台の店が隙間もないほど軒を連ね、これも人の流れを妨げる一因となっており、まるでラッシュ時のターミナル駅の構内のような様相を示していました。お昼の時分時を少し過ぎたにも拘わらず、神社周辺のみならず不忍通りも人であふれていました。根津は、谷中に比べ街のほぼ全域でビル化しており、根津神社周辺を除き、情緒という点では谷中に劣ります。もっとも、根津神社から少し離れた路地裏には木造3階建ての串カツ屋などロマンを感じさせるお店があり、これらにも行列ができていました。

  • 谷根(千)を歩いて
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不忍池の横を通り、再び上野の山から谷中地域に戻りました。徳川家の歴代将軍やその家族、特に篤姫の葬られている寛永寺輪王閣墓所をそこかしこと探索しました。この墓所巡りと現在の寛永寺根本中堂(このお堂内で上映しているDVDをご覧になることを是非お奨めします)参拝でほぼ5時近くなったので、今回の谷根(千)散歩は終わりにしました。

久しぶりに歩いた谷根(千)は、大変変貌をきたしており、昔ながらの建物や街並みが残されている、といってもそれほど多くなく、存在するお寺も含め、以前歩いた時に比べれば比較にもなりません。多くの昔ながらの建物は壊され、その跡地には小規模なマンションが建てられているか、コインパーキングになっており、以前の東京の下町、昭和の家並みという趣からはずいぶんかけ離れてしまっている所も多く見受けられます。

  • 谷根(千)を歩いて
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このような私の散歩でも、新しい発見がありました。それは、全生庵にある三遊亭円朝の墓石に刻まれている「三遊亭円朝無舌居士」という戒名です。三遊亭円朝のお墓が全生庵にあることは知っていたのですが、その戒名までは知りませんでした。戒名の付け方からすれば異色であるとしても、おしゃべりを職業とする落語家の戒名に、院号や庵号の代わりに「三遊亭」を付けることはわかる気がします。驚いたのは「無舌」という文字です。「無舌」という文字を見たとき、舌が無いのでしゃべれないという (落語家はおしゃべりを職業としているのでよくしゃべります) 逆説の洒落かと思いました。しかし、帰宅後調べてみると、仏教の思想では、無舌の「無」にはもっと奥深い、尽きることの無いというような意味があります。臨済宗の公案禅では修行僧が悟りを開く前に課される最後の公案が「無」であるとされていることからも、この無の重要性が窺えます。この場合しゃべること自体及びその内容に、無尽蔵、尽きないという意味があり、また舌でしゃべるのではなく心でしゃべるということをも意味しているのではないかと思うようになりました。実際、この戒名を付けたのは臨済宗の高僧であったことからも、決して洒落で付けたのではないということが窺えます。ましてや、その戒名にこのような「無舌」という深い意味が込められていることを知ったことは新たな発見であり、驚きでした。
古いものが壊され新しいものに置き換わっていきます。しかし、その中にも、残されているものもあります。以前を知る者からすれば少しがっかりした一日ではありましたが、新しい発見もあり、残されたものの中に人々の思い、行いの跡が感じられる一日でした。

(光田 督良)

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