コミュニケーション ―手紙とメール―

コミュニケーションとは人びとの間のやり取り=交換で、文化をもつ人間と動物を分ける一つのエポックであるのかもしれません。交換=コミュニケーションとは人間相互のやり取りに価値を置く文化の体系です。いいかえるなら社会とは交換で成り立ち、人はいやおうなしに交換に巻き込まれていくのです。そして交換されるものに「価値」がそなわっていると、思い込んでしまうのです。文化人類学者モースは「こうした交換は、個人の意思を離れ、社会全体で成立してしまう事柄<社会的事実>である」と述べています。

たとえば、友達同士の携帯電話やスマホを利用したメールは、友情があるからメールするのではなく、メールを交換することによって友情が価値あるものになるのです。それゆえAさんからきた「今、何しているの?」のメールにあなたは「べつに!! ゴロゴロしてる」とあまり意味のない返信をします。メールのやり取り=交換が重要で、うっかり返信を忘れてしまうと人間関係がギクシャクしてしまう経験は誰しも少なからずあると思います。7月20日のNHKニュースは都内の高校生の90%を超える生徒がスマートフォンなどを使っていわゆるSNSを利用している現況を報じ、その中で「すぐに返事を書かなければ!」など、メールのやり取りに約60%が悩みや負担を感じているとコメントしていました。フェイスブックやラインでつながっている仲間やグループでは、チャットや会話(情報)を瞬時に共有し、それに対応しなければ、そのメンバーとはみなされなくなることへの恐れが心の底にあるのでしょう。今日メールやツイッターの会話(=情報)のやり取りに価値があるとする思い込みは<社会的事実>となり人びとの間に広がっていることは事実でしょう。そしてスマホに代表されるデジタル通信機器がもたらした新たなコミュニケーションのあり方は、それに対応する人間サイドの価値や規範が十分に熟成されていないことを物語っています。

確かに昨今のデジタル技術に支えられたメールの交換は、数年前までの手紙などのやり取りにみられた状況とは大きく変化しています。一瞬で相手に返事をすることなど手紙の時代には不可能でした。そこでは相手からの問いかけに時間差が存在し、そこには「待つ」、相手の返事を「期待する」というファジーな時間が潜んでいたことは確かです。今、多くの人びとのメール交換には、ファジーな時間の存在がその場から押しだされ、瞬時の交換に対応する行動が求められるようになっています。人間社会の交換には「相手を信じて待つ」という未来の時間が織り込まれています。電車の中や駅でメールを打ち続ける人を見るのはあまりにも日常的な風景となりましたが、返信を待つ時間はどこに行ったのか考えさせられます。と同時に「置き手紙」「白い便箋」「涙で滲んだ文字」など紙を介した想いも遠い表現になりつつあります。人間関係をよりまろやかに醸造するには、その関係を時の流れに少し乗せてみる余裕も必要ではないでしょうか。人を信じて。

(亘 純吉)

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