「坂」

稲城市坂浜の交差点から駒沢女子大学の正門まで200mぐらいの坂道があります。最大勾配7%のゆるい傾斜とはいえ、この気温の高い時期に駆け上がろうとすると汗だくになりますから、曲がりくねった歩道を歩いて時間をかけて登るのが一番です。普段バス通学している学生諸君は気にならないかもしれませんが、坂道をゆっくりと上りながらあたりを見回すと、普段気づかない様々な景色が目に飛び込んできて、新鮮な気持ちになります。言ってみれば、「坂」は私たち人間にとって最も身近な「非日常体験」なのです。

  • 「坂」

映画では、「坂」は演出効果として使われます。坂が印象的な映画と言えば、なんといっても1968年のハリウッド映画『ブリット』でしょう。坂の多いサンフランシスコ市街での猛スピードカーチェイスは世代を超えて今でも語り草となっています。また『ペーパームーン』(1973)のラストや『ロッキー』(1976)の階段(坂)を登る場面でも、坂は特別な意味を持っています。『目撃者』(1985)で、朝もやの中アーミッシュの村を追跡者が襲うクライマックス、坂の向こうから車が現れるシーンは忘れることができません。遥かなる平原と違って、坂は緊迫感を強調できるのです。

島国で坂が多い風土のせいでしょうか、日本映画には「坂」はもっとたくさん出てきます。私がいつも思い出すのは、相米慎二監督作品『魚影の群れ』(1983)で夏目雅子が大声で歌いながら坂道を自転車で下るシーンです。『転校生』(1982)『時をかける少女』(1983)『さびしんぼう』(1985)の尾道三部作で有名な大林宣彦監督は、坂が大好きな監督として知られています。実際に尾道市は坂や階段ばかりの街です。最近の日本映画でも『蝉しぐれ』(2005)は坂の風景を効果的に取り入れて優れた情感を出していたのが記憶に残っています。

私の好きな自転車の世界では、坂道は難所です。しかし坂上りは「ヒルクライム」と言って愛好者がたくさんいます。国内のヒルクライムイベントは数時間でエントリーがいっぱいになりますし、自転車レースのヒルクライムコースは見物人でいつもごった返します。疲れるし辛いけれど、速度的にゆっくり走るので危険が少なく、見ている方もあっという間に通り過ぎるということもなく楽しめるのです。距離もせいぜい30km程度で時間的にも楽という好条件が揃っています。このあたりの話に興味があれば、SF作家である高千穂遥の『ヒルクライマー宣言』がオススメです。

私たちが「坂」という言葉を使うときには、いろいろな感覚が込められています。喘ぎ喘ぎ上る人々の生活を思い浮かべることもできますし、駆け足で坂を下る情景は若さを想起させます。望遠レンズで見るような坂のある風景には、歴史の積み重ねを感じることができるかもしれません。坂を下から見上げると尾根の向こうには空が広がります。坂の上の雲。司馬遼太郎の著作を持ち出すまでもなく、希望や未来をイメージしてしまいます。苦労して登りきった坂の先に広がる空と雲、そして眼下に見下ろす風景、その気分は格別に違いありません。

坂を登りきったところが峠です。坂のあるところには峠もあります。「峠」となると、坂よりも語感が距離感を持つようになります。「峠」という文字は日本で作られた国字です。「山」「上」「下」という3つの漢字からできた「峠」は、いかにも日本らしい文字でしょう。井出孫六は、日本の歴史は峠を除いて考えることができないと書いています。「東北の峠には一揆と飢饉の歴史が刻まれ、馬の鈴が耳に聞こえる…(中略)…峠のひとつひとつが個性と表情を持って、それぞれにこの国の精神風土の縦糸となり横糸となって織りなされている」(『日本百名峠』序文より)

坂と文化は切っても切り離せない関係にあります。坂を見て、そこを通過した先人たちを思うとき、文化もまた坂を通って伝わったのだと感慨を新たにすることができるでしょう。空襲で焼け野原になった敗戦直後の東京を眺めた人は、「東京はこんなに坂が多かったのか」と感じたそうです。東京には都心のビル街に挟まれた坂や、住宅地につながる坂が至るところにあります。そして稲城もまた坂の多い土地です。一度バスをひとつ手前で降りて、正門まで歩く「非日常体験」をしてみませんか。坂のある風景は、あなたにより豊かな感情を呼び覚ましてくれることでしょう。

(小林 憲夫)

参考資料、引用文献
『ブリット』 Bullitt, Peter Yates, 1968
『ペーパームーン』 Paper Moon, Peter Bogdanovich, 1973
『ロッキー』 Rocky, John G. Avildsen, 1976
『目撃者』 Witness, Peter Weir, 1985
『魚影の群れ』相米慎二監督、松竹映画、1983年公開
『転校生』大林宣彦監督、1982年公開
『時をかける少女』大林宣彦監督、1983年公開
『さびしんぼう』大林宣彦監督、1985年公開
『蝉しぐれ』黒十三男監督、2005年公開(別にテレビ版もあり、出来はそちらの方が良い)
高千穂遥『ヒルクライマー宣言 自転車で山に登る人』小学館101新書、小学館、2010年
司馬遼太郎著『坂の上の雲』文春文庫、文藝春秋、1999年
井出孫六編『日本百名峠』桐原書房、1982年

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