街歩きの楽しみ――精確な情報と「モヤモヤ」した街角

日本中、どこへいっても同じ景観にしか出会わない。2000年を過ぎたころから、こうしたことが随所で危惧されています。マクドナルドやスターバックス、ユニクロやTSUTAYAに代表されるような、大資本によるチェーン展開の店舗が各地にでき、とりわけ郊外には、それらを一気に揃えた大型ショッピングモールが出現し、都心でも地方でも同じ光景にしか出会えなくなったというのです。都市社会学においてはすでに、都市がその固有の歴史性を忘却しながら発展していく過程が明らかにされていましたし(吉見 1987)、G. リッツアの「マクドナルド化」という語もこの現象の一面を記述していました(リッツア [1993]1996)。また、三浦展はこの事態を「ファストフード」になぞらえて「ファスト風土化」と呼び(三浦 2004)、そのキャッチーな響きが耳目を集めました。私自身、東京でも、実家のある神奈川県でも、ほかの土地に出かけた時でも同じようにスターバックスやタリーズ・コーヒーに入ってしまう生活をしているので、この種の指摘には大いに納得してしまいます。

  • この原稿もスターバックスにて執筆中
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一方で、そうした現象への反作用でしょうか、地域固有の個性をもった表情をすくいとろうとする動きも見られるようになったように思えます。テレビの街歩き番組などがその典型でしょう。なかでも、私が好きなのは、2007年に始まった『モヤモヤさまぁ〜ず2』(テレビ東京)です。お笑いコンビ「さまぁ〜ず」の大竹一樹と三村マサカズ、アナウンサーの狩野恵里(2013年4月までは大江麻理子)の3人が、街を歩き、人々と触れ合う番組です。メジャースポットに行くことを禁欲し、マイナーな(「モヤモヤした」)場所をまわることに徹しているのが特徴です。たとえば、六本木に行っても、六本木ヒルズには立ち入らず、個人商店の小さな靴屋や、謎の二宮金次郎像で遊ぶという具合です。モヤモヤした場所で出会う人々は、自慢話が長かったり、親切心がちょっと過ぎたり、子ども受けを狙おうとして外していたり、面倒くさくお節介をやいてきたりする、そういう「普通の」おじさんやおばさんたちです。この番組を見ていると、街にはまだまだ個性が残っていることに気づかされ、自分でもそれを再発見してみたくなってしまいます。

実際、私は、この番組の影響で街を歩くことが増えました。ひそかに「ひとりモヤモヤ」などと称して街をブラブラします。私のリアル街歩きでは、結局スタバでお茶をしたりしてしまうのですが、それでも「歩く」ことによって見えてくる表情があります(もちろん、『モヤさま』の主たる舞台でもあり、私の生活の拠点でもある東京という場所の幸運にも助けられているでしょう)。

私は地理に疎いので、この一人遊びの際には地図アプリが頼りです。地図アプリは、ある意味で「モヤモヤ」とは正反対のツールです。世界を俯瞰し、世界中のどこの情報も均質に収集し、提供します(現時点ではまだ情報に濃淡はありますが、いずれなくなるでしょう)。ビバリーヒルズの高級住宅街も、東京のしがない街角も同じように示されるのです。抜け目なく世界中を把捉するその精確さに対しては、警戒心さえおぼえます。しかし、どこにもさしたる地元意識がなく、地図を読むことも苦手で、方向感覚もおぼつかない私は、このグローバルなサービスがなければ、こんなに歩いてみようと思うことはなかったでしょう。その俯瞰的な視点によって、逆説的にも、私は自分の立っている場所からしか見えない、その街の固有の表情と出会えたようにさえ思うのです。

高感度のGPS機能と高精度の地図アプリは、もしかたら、地域と人とを、新しい仕方で結びつける可能性を与えてくれたのではないか――それは、あまりに楽観的な思いつきかもしれません。でも私は、もう少し、ケータイ片手に街を歩き続けてみようと思います。

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【参考文献】
リッツア,G./正岡寛司監訳,[1993]1996=1999,『マクドナルド化する社会』早稲田大学出版部.
三浦展,2004,『ファスト風土化する日本――郊外化とその病理』洋泉社.
吉見俊哉,1987,『都市のドラマトゥルギー』弘文堂.

(大貫 恵佳)

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