学びの「形」/亘 純吉(文化人類学)

能の大成者である世阿弥元清は「形より入りて形より出でよ」と説いていますが、この教えは、伝統芸能の身体動作のみならず社会や文化の領域においても強く意識され、人間形成には欠かせない行動規範・原理として時代を越えて大切に語り続けてきたことには間違いないと思います。日本人の行動原理のなかで「形を極める」ことは普段の生活行動のみならず思考の過程でも重要視され、私たちの「社会化」に係る信仰に似た原理がそこにあるような気がしてなりません。

コミュニケーションと人間関係を学び・研究する私たちの人間関係学科は、教養と言われる学びを重視しています。教養というと、「面白くない、古臭い、役に立たない、小難しいことを学んでどうするの、歴史なんて過去のコトじゃん…」などと語り、その真髄に触れることなくアレルギー反応を起こしてしまう学生諸姉がかなりの数いることは確かです。もっとも基礎教養や古典教養の先細りは、今に始まったことではありません。一つのエポックがバブルの崩壊した20世紀末で、大学での学びの質がより実学的な方向に舵を?取られてからです。理論的に「もの」を考える論理的な思考が持て囃され、加速的に広がり、「答え」に到達するマニュアル、ハウ・ツー的な大学教育が重視され始めたからです。「もの」を比べ、推し量り、その答えに迫る力は確かに生きるために必要なことであることには間違いありません。それは人間の理性こそが世界を規定するとする「近代」の世界観がきわ立ち輝く側面でもあります。このことは、人間が持つ理性こそがこの世界を切り取れるという考えに価値を置いているのです。

私たちの生活すべてが近代合理的な考えに従って回っているわけではありません。人間の多様な生き様の一つに過ぎないのです。これまで人間は、「人間と宇宙」を知るために様々な哲学に挑戦し続けてきました。その歴史のなかで揉まれ洗練されたエッセンスが古典や歴史などの基礎教養といわれるものです。そこには、私たちが言葉では語ることのできない人間の悦び、苦悩などが積み重なり醸しだした「知恵」も詰まっているからです。それゆえ教養は、新たな課題を掘り下げ考える際には不可欠な学びの要素といわれています。なぜなら、この知恵の「形」に触れることが既存の知識や言説に対してパラダイム転換を呼び起こす「深く洞察する力」「新たな変化に対応する力」につながるからです。言い換えるなら「形」に先達の知恵をみいだすことです。18世紀に初代ドイツ帝国の宰相として活躍したビスマルクは、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言っていますが、生き抜く知恵とは何か、新たな思考を支えるものとは何か、を解き明かす蘊蓄ある一節ではないでしょうか。

また、この基礎教養と言われる学びには、ある民族がある地域で生き抜く知の体系であり、理性では説明のつかない「心意」あるいは「エトス」も潜んでいます。「形」を知ることは、私たちが理性的な論証を重視し追求する過程でその周縁に押しやってきた「不確定」「不完全」「不可能」「不可思議」「未知」なるものを意識せざるを得ないからです。「形」を越えるものとは何か、を追求する学びの姿勢に挑戦し、新らたな課題に立ち向かう力を養うことが大学における「学」の方向性ではないでしょうか。

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