5年後・10年後のために/榎本 環(社会学)

学生諸姉のライフコースに即して考えてみるならば、卒業後、自立した市民として本格的な社会生活を歩み出す彼女らにとって、大学生活の4年間は、そのための仕上げの「教育」を受ける最後の期間である。もちろん、現実社会での身の処し方や人間関係の築き方、ものの見方や考え方などは、一生を通じて磨かれ続けるものであろう。しかし、自らの人生や社会生活にどのように立ち向かっていくかという基本的態度や世界観は、20歳前後までの体験や学びの質によっておおまかな方向付けが定まるといえよう。ひとたび世間に出れば、人は互いにオトナどうしの関係である。自分の不見識や至らなさを親身になって指摘し諭してくれる相手とつねにめぐり会えるとは限らない。自ら“気づく”力と、自分を客観的に振り返る姿勢は、若いうちに身につけておかねばならない。それゆえ、大学教育の責任は大きいと私は考える。

教育は、「カスタムメイド」の考え方を基本に据える必要がある。その第一歩は、相手についてできる限り具体的に把握することから始まる。一人ひとりについて「その学生の秀でている能力、伸ばすべき特性」は何か、逆に、「その学生に欠けているもの」は何かを見極めることから、「何を教えるべきか」が導かれるべきであろう。また、それを「どこまで教えるか」の到達目標は、個々の学生の能力に応じて、かつ、学生たちが経験するであろう“その後”からの逆算によって、設定されるべきであろう。

卒業後の学生たちは、ほとんどが職業生活に足を踏み入れることになる。それに関しては、私自身、かつて企業組織とビジネスの世界に身を置いた経験があるというささやかな自負もある(自身の経験を相対化する視点を自らに課しているつもりではあるが)。リアルな現実体験と社会認識をベースに、学生たちが、たとえば、「就職活動に臨むときに、卒業論文を書くときに、社会人となったときに、入社後3年目のキャリアを迎えたときに何が必要か」、あるいはまた、「ひとりの人間として、30歳、40歳を迎えたときに何が必要か」「豊かな人生を送るためには何が必要か」…、そういった思いを頭の片隅におきながら、日々、学生たちに接している。

そのためには大学卒業までの4年間でどのようなことを身につけておくべきだろうか…。高いハードルを課しているつもりはない。個人的な価値観を押し付けているつもりもない。私が学生たちに求めているのは、社会的な常識感覚について理解しそれを実践できる、他人への配慮ができる、「ありがとう」と「ごめんなさい」がしっかりと言える、といった、人としての基本的な心構えである。具体的にいえば、たとえば、“他人”との関係構築の仕方や目上の相手との接し方は知っておいてほしい。集団行動についての理解とチーム作業に参加するうえでの作法は確実に身につけてほしい。その次のステップとしては、好悪の感情や“決めつけ”から脱し、好奇心を拡げ、オープンなマインドをもってほしい。失敗から学ぶ潔さと挑戦する勇気を学んでほしい。面倒なこと大変なことから逃げ回るのではなく、それに正面から立ち向かい乗り越えた後の達成感を知っていてほしい。それらの前提として、何よりも、行動する力を身につけてほしい。そんなことを学生たちに教えておきたいと考えている。

目的意識に目覚めた学生は、放っておいても自立的に学び成長していく。教育力が試されるのは、むしろ、学ぶ意識の希薄な学生を相手にする場面である。人に何かを教えるということは、ことほどに難しい営みだと痛感する。本人に気づかせる、それを促す環境を整える、というのが理想的なかたちではあるが、それを導くセオリーといったものはなく、試行錯誤のうちに徒労に終わることがほとんどだ。戦争や軍人を賛美するわけではないが、戦前の海軍大将 山本五十六の言、「やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ」には学ぶべきものがある。

学生を信頼し、自由にのびのびとやらせる流儀を宗としたい。本人の「個性を受け容れる」こと、「褒めて伸ばす」ことの重要性は強く自分に言い聞かせている。指導の方法もそれこそカスタムメイドで、同じ注意でも相手の性格に応じて、ある学生に対しては論理的な言葉で説明し、別な学生に対してはガツンと叱る、などの使い分けの工夫も必要である。また、指導が必要だと思われる場面が10回あったとしても、そのうち実際に注意するのは3回にとどめ、残りの7回は目をつぶってじっと待つぐらいが指導者としては適切だということも肝に銘じている。

それでもやはり、ここぞというときに、どうしても見逃すわけにはいかない場面、注意指導すべき状況というものがあるように思う。叱ることは相当なエネルギーと覚悟を要する。研究者・教育者という立場上、私見に対しては客観性をめぐる方法的懐疑の視点を向けがちではあるが、叱る際には、自分の判断に迷いがあってはならない。そもそも、「叱る」ことと「怒る」ことは異なる。叱るときには、その場のタイミングを逃してはならない。ひとたび叱ったら、そこからブレてはならない。同じ状況に対して或るときには注意され、或るときには見逃されるというのでは教育的指導にはならない。

叱られることを、すべての学生が教育的指導と謙虚に受け取るとは限らない(そういう受け留め方ができるには、ある程度の成熟が必要である)。学生の“逆ギレ”やこころない言動に、生身の人間として傷つくこともあるが、それには堪えねばならない。見て見ぬふりをするほうがラクではある。だが、その誘惑に負けるわけにはいかない。叱られることの意味を本人自身がいつか理解するかもしれない。もちろん、そういう日は永遠に訪れないかもしれない。しかし、「言ってもムダだ」「煙たがられるだけだ」と叱ることを諦めて、あるいはそこから逃げてしまえば、それは教育の放棄を意味するのではないかと自問する。

「社会人として必要なマナーや常識をゼミで身につけていたことが、就職してわかりました」…。今春、偶然にも複数の卒業生からこのような趣旨の言葉を受け取る機会があった。ほんのひとにぎりの学生に過ぎないかもしれない。しかし、それらの言葉から、少なからぬ救いと励ましを受け取る思いであった。

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