桜のころ/榎本 環(社会学)

春…、また新しい一年が始まる。この季節を迎えると、やはり桜の開花のことが気になって仕方がない。千鳥ヶ淵、青山霊園、伊豆高原、水郡線沿いの山桜、白石川、北上展勝地、花巻、釜石、角館、弘前城の夜桜、五稜郭。そして、大学に通う道すがらの自宅近くの銘木、車窓を流れていく桜並木、稲城の駅前に降り立ったときに目に飛び込んでくる山々の桜、三沢川沿いの並木、古民家の庭先の大木、学園に通じる坂道の桜並木。やはり自分はこの国に生まれ育った人間なのだとつくづく思う。

枝先に、その年初めての花が開いているのを見かけると、こころ踊らされる。ある日を境に、開花は堰を切ったような勢いに転じる気がする。毎年、眺めてきたつもりであっても、いよいよ満開の頃を迎えると、その華やかさは想像をはるかに超えている。それから数日をかぞえ、花びらがはらはらと舞い散るころの美しさには言葉を失い、圧倒される。

さまざまのこと思ひ出す桜かな  芭蕉

今年もまた目の前にこの花を眺める恍惚に万感の思いがよぎる。そして、今年のこの花をしっかりと目に焼き付けておこうと思う。

  • 大学正門前の八重桜
    大学正門前の八重桜

至高のものを見せたいと思い、今年もゼミ生を千鳥ヶ淵に誘った。私の個人的な趣向や思い入れなどどうでもよいことで、学生たちは彼女たちなりのスタイルで花見を楽しんでくれたらそれでいいと思う。できうれば、良識ある人間に共通のたしなみとして、美しいもの素晴らしいものに感動するこころが何かしら伝わってほしいと願う。
桜の花をこころの底から美しいと思う…、そういう受けとめ方ができるには、ある程度の人間的成熟が必要であるように思う。わが身のことを振り返ってみても、そういった感動が自分のなかに芽生え始めたのは、学部を卒業し、20代の後半に差し掛かってからのことだったように思う。民間企業に就職し、ギリギリの崖っぷちに追い込まれる日々のなかで、「いま」というこの時間が、「歴史」という名の、気の遠くなるような過去から続く長い時間の延長上に重なっている、という単純な事実に身をもって気付き、いま自分がこうして生きていることが、じつに多くの人びととの奇跡的な縁に支えられていることに思い至った。自然の美しさにこころ奪われるようになったのは、そうしたことを経験してから後のことだったように思う。
当時、疲労困憊の身で独身寮に帰宅する途中、深夜の住宅街で、満開の桜の古木に目が止まった。見物客が集まるような名所にある桜ではない。人通りの少ない狭い路地裏で深夜にひっそりと、けれども枝ぶりも立派に堂々とそびえ立ち、あたりの地面に花びらを散らしていた。はっと我に返り、それから山々に咲く桜のことを思った。山奥にある桜の木々は、誰の目にもふれない場所で冬の寒さにじっと堪え、ひとり絢爛たる花を開かせ、やがてその花もひっそりと散っていく。誰にも知られることなく、けれども決して手を抜くことをせず、渾身の生命力をもって自らに与えられた務めをまっとうし、それでいて泰然としている。それを何十年も淡々と繰り返している。そういう営みに思いをめぐらすと、ひるがえって我が身の憔悴は恥ずかしいほどちっぽけなものに過ぎなかった。

学生たちに何かを「教え込も」うとするのは教員の傲慢であろう。「伝えたい」ことを、伝えたいとおりにそのまま伝えようとしても、それはできないことであろうし、先達ぶって、人生の先回りをするような助言を与えても、学生たちのこころには響かないだろう。もどかしいけれども、学生たちには、日々接するなかで、ひとりの人間として自分自身に恥ずかしくないような「“生きざま”をみせる」ことしかできない…、そう考える。たとえ反面教師であったとしても、そこから、学生たちが何かのヒントをつかんでくれたら本望だと思う。
桜の季節の到来とともに、また新しい一年が始まる。学生たちとの新たな時間が始まり、新しい出会いもある。どんな経験が待っているだろうか。

2016年4月3日

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