女性に対する冒涜

少し前のニュースになりますが、2014年5月に、インド北部ウッタルブラデシュ州で14歳と15歳の2人の少女が集団レイプされた上その死体が木につるされていたとの報道がありました。この事件は、被害者の年齢などから社会の関心を集め、警察官1人を含む4人が逮捕されたとのことです。これまで、インドでは度々このようなレイプ事件が起き、インド人女性だけでなく外国人女性もその被害に遭っています。このような事件が広く報道されるようになった契機に、2012年12月に首都デリーで起きた女子大生集団レイプ事件があります。バスに友人男性と乗車した女子大生がバスの運転手を含む6人の男たちからレイプされ、鉄パイプで暴行を受けた後裸同然でバス外に放り出されました。警察官を含む通行人は、この女性を助けようとはせず、結局この女性は病院で死亡しました。6人は逮捕されましたが、人々の怒りは収まらず、政府も性犯罪摘発強化を打ち出しました。しかし、その後もレイプ事件は後を絶ちません。

このような事件が起きる背景には、何よりも根強く残る女性差別があげられるでしょう。また、未だに残るカースト制、さらには警察や検察も性犯罪事件の摘発に消極的なこともあります。このような状況は、女性差別という程度を越え、女性冒涜とまで言えることとなっています。

インドにおける女性差別・冒涜の典型的な現れは、「ダウリ」というインド社会で長く続く風習に見受けられます。ダウリとは、簡単に言うと婚姻に際し、女性側の家族が莫大な持参金を男性側の家族に提供しなければならないことです。ダウリ(持参金)が少なければ、男性側が満足のいく額になるまで要求を続けたり、女性が婚姻後男性の家族からいじめられたり、ときには油をかけられ焼き殺されたりします。「女性を焼き殺さないで」という新聞広告が出されたほどこの問題は深刻化しています。なぜ焼き殺すかといいますと、それは、女性が料理している途中でうっかりして衣服に引火した事故に見せかけることができるからです。したがって、この種の事件で、男性側の罪が問われることはまずありません。このため、このような事件が後を絶たないのです。1961年には「ダウリ禁止法」も制定されていますが、その効果は発揮されていないというのが現状です。

このようなことから、インド社会では、女の子の出産を望まない風潮が蔓延しています。地方の田舎町の医療設備も十分でない粗末なクリニックでもエコー(超音波)診察器は完備しています。それは、妊婦が胎児の性別を知りたがり、胎児が女性であるとわかると、直ちに中絶を希望するからです。実際、出生時における男女比率は極端に男性が多く、将来人口バランスに問題を来すことになるという警鐘も鳴らされています。政府は、産婦人科医が妊婦に胎児の性別を教えることを禁止しています。それにも拘わらずこのような状態が続いているのです。

このようにインドで女性差別が行われるようになった原因としてよくあげられるのが「マヌ法典」です。マヌ法典では女性を劣等視する結果、女性の独立を認めず、常に父や夫や子供に対し従属的存在と見ている条文が存在します。例えば、「幼くても、若くても、老いても、女は何事も独立に行ってはならない。たとえ家事であっても」(5章147)「子供のときは父の、若いときは夫の、夫が死んだときは息子の支配下に入るべし。女は独立を享受してはならない」(5章148)等がその例です。また、女には天性の邪悪性が存在しており、それ故に女性を常に男性の監視下に置く必要があるとする条文も存在します。例えば、「この世で男を堕落させることが女の本性である。それゆえに賢者たちは女たちに心を許さない」(2章213)、「女たちは、この世において愚者のみか賢者をも愛欲と怒りの力に屈服させ、悪の道に導くことができる」(2章214)等がそれに当たります(マヌ法典の条文の訳は、渡瀬信之訳注『マヌ法典』平凡社東洋文庫2013年192頁、77-78頁によりました)。

このような宗教的教え、それに基づく偏見、さらにはそれを基礎にした社会的慣習、これらのことから女性は虐げられ、生命をも奪われるということになっています。女性の人格や尊厳に対するこのような冒涜は決して許されることではありません。

「女性の人権」という科目では、マヌ法典(インド)に限らず、世界のあらゆるところで行われてきた女性差別(冒涜)について、その根拠を批判的に検討しています。

(光田督良)

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