別の可能性を探ってみよう —応用哲学としての化粧文化学—

あなたは、自分がいまその中にいる世界の存在を疑ったことがあるだろうか。自分自身の存在を疑ったことがあるだろうか。3.11を経験し、原発の不安を抱え、毎年大きな自然災害が続く昨今、当たり前に続くと思っていた日常生活が一瞬にして崩壊する可能性が現実味を帯び、こうした疑問を抱くようになった人がいるかもしれない。災害がきっかけでなくても、思春期にこうした疑問が湧き、悩む人は昔からいた。よく考えてみれば、約束とはこの社会が明日以降も続くことを前提に成り立っている。しかし、いまある日常や社会が今後も続く保証などどこにもない。自分がいま存在する理由も、また、自分がある時点である場所に生まれた理由もない。自分の周りの人が存在する理由もなければ、ほんとうに存在しているのかどうかを確かめることもできない。すべてが永遠に覚めない夢の中の出来事かもしれないからだ。すべては自分の意識の中の出来事であり、自分が死んだら世界は終わると考えることもできる。哲学ではそうした考えを「独我論」という。

自分が思いも寄らないことを他人が言うから、他人の存在は確かなことで、独我論は成立しないという考えもあるだろう。しかし、あなたの親しい人が目の前の物を指差して「赤いりんご」と言ったとき、その人が思い描いている「赤」や「りんご」と、あなた自身が思い描いている「赤」や「りんご」が同じだという保証はあるのか。コミュニケーションが成り立つとは、成り立つと思い込んで行動していることに過ぎず、成り立っていることを保証するものは何もない。

  • あなたが思う「赤」と「りんご」が、私の思う「赤」と「りんご」と同じだと、どうして言えるのか
    あなたが思う「赤」と「りんご」が、
    私の思う「赤」と「りんご」と同じだと、
    どうして言えるのか

自我、他者、赤、りんご、コミュニケーション、社会など、私たちが知っているもの、あるいは存在や成立していると考えているものは、それらの背後に「真実の自我」「赤の本質」など、「真実の○○」や「○○の本質」という絶対的な存在があり、それがこの世界や世界の中のさまざまな人や物の存在を保証し、コミュニケーションの成立を保証しているという考え方がある。このような絶対的な存在のことを哲学で「実体」と言う。プラトンの「イデア論」を始め、「実体」を前提にした考え方は古代ギリシャから営々と続いている。

ところで、私の専門は化粧文化学だ。化粧を文化ととらえて、文化を研究するさまざまな分野から化粧を扱う研究の全体を化粧文化学と言う。正確には、私の専門は化粧文化学の中の哲学的化粧論で、その方法として現象学という哲学の一分野を採用している。大学3年生の始まりに卒業論文で扱う哲学者と本を決めた時に現象学を選択し、現在までずっと現象学の方法を使っているが、その理由は「実体」を措定しない発想だからだ。「実体」を措定しなければ、独我論や存在証明を始めとする哲学上の数々のアポリア(時代を超えてだれも解決できなかった難問)が無効になり、その先へと研究を進める大きな可能性があると考えている。

哲学とはものの見方・考え方を厳しく吟味する学問だ。それゆえ、結果としてしばしば常識を疑うことにもなる。私の授業はどれも、ふだんの生活の中で何となくわかっているつもりになっていることを、「わかっているつもりだった」と気づき、自分や自分の所属する社会が持つ「とらわれ」や「こだわり」を発見し、別の考え方や別の可能性、別の価値基準に気づくことを目的にしている。「目が大きくなければかわいくない」、「やせていなければ美しくない」、「いつまでも若々しくなければ美しくない」など、化粧や美容には私たちが所属する社会が無意識のうちに築き上げ、そこに生きる私たちにとってあたかも絶対的な条件であるかのように思われる価値基準や考え方が多々存在している。それらが「実体」だと思い込んでいることに気づき、なぜそうした考え方が支配的になったのかを知り、問題点を発見することで解決策を探る、そうした試みを、ゼミを始めとする授業や研究で実施している。「実体」を設けない現象学はこうした形で役に立つ。このような哲学的化粧論は、哲学の方法を社会的な問題の発見と解決に応用した、応用哲学でもある。

【現象学のおすすめ入門書】
竹田青嗣『現象学は思考の原理である』,ちくま新書
【「赤いりんご」の言語コミュニケーション成立を哲学的に考える本】
ヴィトゲンシュタイン『青色本』,ちくま学芸文庫

(石田かおり)

教員エッセイ :新着投稿