第2の皮膚と第2の脳 -人間関係学科専門ゼミ選択の先に-/亘 純吉(文化人類学)

4月からのニュースに「重力波が観測!」「英国のEUからの離脱!」などがありますが、宇宙が膨張している? 時空のゆがみ? イングランド? 国の離脱って? など浮かび上がってくる様々な疑問を諸姉はクラウドや図書館、新聞、講義などから多かれ少なかれ情報を手に入れ考えてきたのではないでしょうか。「そこまでは」という人は、個人の日常的な関心ごとや自身の行動に係る漠然に「なぜ」と思ったことがあると思います。例えば人間が行動することとは? 社会的な行動をすることとは? 顔色をうかがうとは? なぜ積極的/消極的な態度で行動するのか?などです。この頭によぎった疑問や興味のあることを、掘り下げてみようとする心が、専門ゼミに踏みこむ第一歩となります。疑問にこだわり続けることが諸姉のゼミ選びにつながるのです。

「哲学を学ぶことはできない。哲学をすることを学びうるだけである」と哲学の巨人カントは語っていますが、同様に「専門という専門」はありません。専門家になるための‘専門’という学びは無いのです。世界で起こるすべてのコトや頭によぎるあらゆるコトに「なぜ」「どうして」と疑念をいだき、それを突き詰め、考えることが専門の入り口なのです。この作業こそが「知の再編」と言われるもので、大学で専門ゼミを選ぶこととは、まさにこのことに挑戦することなのです。

人間関係学科は、人文学部を構成する学科の一つです。人文学とはどのような学問か、といえば「人間とは何か」あるいは「人間この未知なるもの」を追求する場である、と言えるのではないでしょうか。「文化」という言葉は数多くの研究者によって定義されてきましたが、アメリカの文化人類学者クラックホーンが「人類学で‘文化’というのは、一民族の生活様式の総体、個人がその集団からえられる社会的遺産を意味する」とした見解が一般に受けいれられています。すなわち、人間を「文化」から研究するのが文化人類学の特色あるいは魅力といえます。文化や人の生き方には「世界で普遍的に通じるもの」と「文化によって異なって現れるもの」とがあり、文化人類学には、今、目の前にいる人びとと接しながら、人類の「多様性」と「普遍性」が把握できるような研究姿勢がその底流に求められているのです。

「文化」を解き明かす入り口の一つは、前述した「文化」の定義の中にもあります。文化とは、ある民族が持つ「生活様式の総体」という文言に絞ってみましょう。「生活様式」と述べているのは、当該の文化には様式=スタイルがあるということを意味します。民族はその民族独自のスタイルを持つわけです。この「スタイル」は、その民族が勝手に決めればよいのです。どのようなスタイルを作り上げてもよいのです。これを「文化の恣意性」と言います。そして民族が作り上げた独自のスタイルはその民族で共有され、それを共有できない者には、その文化の作り上げた制裁が加わり、結果、「文化」のスタイルは維持されて行きます。このスタイルは、その文化の作り上げた継承方法のスタイルで次世代に受け継がれて行くことになります。様々な民族が独自の生活様式で暮らしているのは、このような文化的な仕掛けが人間には備わっているからです。

リオのオリンピックの入場式、色鮮やかに着飾った民族衣装で入場する選手団もそうですが、世界には数多くの民族的集団があり、民族ごとにその民族の装いの体系(=民族衣装)があるのです。個々の民族衣装は、素材や作り方、色あいなど日本のそれとはかけ離れたデザインがあることは周知の事実です。「文化の多様性」とはこのような姿として表れます。

では、人びとが社会生活を送るにあったって、なぜ「衣服」を身にまとうのでしょうか。「衣服」の文化を考える際に大切な視点は、「衣服」そのものに焦点を絞った議論をするのではなく、「衣服」と「身体」の関係性を踏まえた議論をすることにあるのです。この視点をとおして「文化の普遍性」を考察することが肝要なのです。

これまでに、この種の議論は、衣服の起源に係る話題に集約され、語られる傾向にありました。「身体保護説」「羞恥心説」「呪術説」「性器保護説」「自己主張説」などの諸説が興味本位に取り上げられてきましたが、的を射た議論とはほど遠いものでした。それは衣服を<モノ>としてとらえ、その機能と直接つながる文脈の流れの中でなされてきたからです。

しかし、近年は<モノ>と<コト>との関連性を問い直し、‘身体’を自己と他者との相互関係性の中で作られる‘イメージ’として捉えるアプローチが主流となっています。この立場をとるなら化粧やファッション、立ち居ふるまい、香りなど‘身体’そのものが醸しだす全体的な‘イメージ’を議論できます。相互に関係するコンテクストの連なりを俯瞰し、自らがこだわる、あるいは関心を持ったキーワードを解きほぐし議論することこそが、大学で学ぶ「専門」への道なのです。

文化人類学における衣服研究は、「衣服とは人間の身体を<自然>の次元から〈文化〉の次元へ再構成する文化的なしかけ」として捉え「身体の文化/社会化」に係る議論の一部としてなされてきました。この領域へのアプローチは、「人間の身体とは何か」がスタートです。すなわち人間は、なぜ妊娠し生まれるのか、に始まり、男女の性はどのように決まるのか、胎児は何を食べて大きくなるのかなどの疑問を、近代医学の説明原理とは異なる民族独自の枠組みで語り続けてきことから解き明かします。このことを踏まえ、「人間」として生まれてきた身体がどのような経緯で民族独自の様式に文化/社会化されるかに焦点をあて議論がなされるのです。皮膚の色や骨格などの人間の生物的な特徴、命名、身体技法(歩き方、寝かた、座り方、挨拶、立ち居ふるまい、食べ方など)、身体表現(衣服、化粧、装身具、髪型、香り、身体彩色、入墨、瘢痕文身——皮膚に傷をつけて作る身体装飾など——、身体変工(割礼、頭蓋変更、抜歯、纏足、整形など)など、人間の身体は、先天的形質の基層の上に、その文化の様式=スタイルに従って作られ、個人が何者であるかの情報を意識、無意識を問わず社会に向け発信し続けていることを議論するのです。

学生諸姉の多くが、ファッション、化粧など身体表現に何らかの興味を抱いていますが、その興味を社会や心理、メディアなど人間関係学科の学問領域から問題系として深めてみようと思っているなら、それは、まぎれもなく専門ゼミの入り口に立っているのです。すでにその世界に席をおいている諸姉は、さらなる身体の広がりを視野に入れて学びの質を深めてみてはいかがですか。

例えば、民族のアイデンティティを表象する民族衣装は、その文化の伝統性を踏襲し、その民族集団が理想とする身体表現、言いかえるなら「人間自身」の理想的な姿=イメージの表現ということを考えると、その姿は現実の世界では実現することがなく、夢の世界あるいはあの世でかなう姿であるかもしれません。また、情報端末としてのスマートフォンは、すでに私たちの身体機能と密接に絡み合い、衣服を「第2皮膚」とするならスマートフォンも身体の一部として人間の装いに組み込まれ、いわば「第2の脳」として考え、モノと身体コミュニケーションのあり方として議論を深めることも可能です。人間関係学科の学びは広く深みのある領域をカバーしています。その専門ゼミの入り口には扉がありません。学年も問いません。研究室の前に立ち、覗き、踏み込んで下さい。そこに広がる知のフィールドで遊ぼうではありませんか。

クラックホーン, C.
1950 『Mirror for Man 人間のための鏡─文化人類学入門』講談社
ルドフスキー,B.
1979 『みっともない人体』(訳)加藤秀俊、多田道太郎、鹿島出版会
鷲田清一
2012 『ひとはなぜ服を着るのか』筑摩書房

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