戦争と平和について[仏教科 中村]

ロシアによるウクライナ侵略から2か月半。多くの民間人が犠牲となった。

ある時、ツイッターで、マリウポリで亡くなった方々が黒いビニール袋で運び込まれ、次々と長方形に掘られた穴に放り込まれている映像を見た。(AP通信)
それ以降目にこびりついて離れない。

どこかおかしい、この違和感は何だろう、と考えた。たちまち答えが出た。それは「尊厳」、それがまったく失われていたからだ。

一人ひとりに尊厳があり、歴史があり、名前があり、大切な誰かがいて、愛されている。

それが一瞬のうちに無差別に奪われ、誰だか分からない状態で遺体が山積みにされる……。そこに、いのちに対しての畏敬の念のかけらは一切なく、ただ「物質」として処理されていた。
このような不条理極まりない残虐行為は、歴史として見聞きしていたが、今回改めて戦争というものの恐ろしさを感じたのだ。

今回、戦争と平和について考えていく手掛かりになる、と知人より菊池寛の『恩讐の彼方に』を薦められ、読んでみた。

罪を犯して絶え間ない後悔を感じながら生きる市九郎が、実之助との抱擁という形で救いを受ける物語。
実之助という侍の息子は、父を殺した市九郎に恨みを抱くが、僧となって懺悔の人生を歩んでいる市九郎を目の前にすると、情けの感情が起こる……。

市九郎が私自身の罪の意識と重なるため、読んでいて始終苦しかったが、果たして「悪」とは何なのか、真の悪人とは誰なのか、考えさせられた。

人を殺しながらも生きるためには致し方なし、「罪」を犯す市九郎、それに対し、かけおちした女性であるお弓は、市九郎が殺した女性から、金目になりそうなかんざしを取り忘れたことを責め立て、現場に引き返すのだ。こうして尊厳を二重にも奪っていく。

人間性それ自体、ではなく、物にしか価値を見出せない、これは浅ましく、まさにもともとのいのちの本質から立ち上がる尊厳を踏みにじる、人間の残虐性を目にした。

回心した市九郎は、転じて仏道修行には励み、菩薩と慕われ、赦され、救われてゆく。
一方、私が心配だったのは、お弓だ。罪の意識なく、浅ましい生きざまに、救いは程遠いように感じた。

道元禅師は『正法眼蔵』仏性の巻で、『涅槃経』の「一切衆生悉有仏性」を大胆に読み変えた。従来の読み方「悉く仏性有り」ではなく、「悉有は仏性なり」と。

我々の本質は、善と悪、在るとない、自と他。そういった二元を超えたところに、隠すことなく現前している。

それに気づいて行為するか、気づかないか、その違いだけであって、ないとかあるとかを超えて、本来あるのだ。その世界を「一如」と表現していると考える。

今は亡き、ベトナム僧のティクナットハン師は、「インタービーイング(相互共存)」の教えを説かれた。仏教の「縁起」を欧米にわかりやすく紹介するために作られた言葉だ。

生と死、右と左、戦争と平和……。一見相反するように見えるが、どちらかがどちらかを切り捨てることは不可能。
天秤のごとく、揺らぎながら、いちばん安定する場所、統一されたところ、バランスのとれたところ(「中道」)を対話などにより実現に向けて努力する。そこから慈悲(思いやり)が自然に湧き出てきて、真の平和・平安が訪れると思う。

  • 泥から蓮の花が咲く
    泥から蓮の花が咲く

仏教科 中村 友恵

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