影法師

ときどき、夕方の日差しを浴びながらグランドや学校のロータリーに立つと、子どもの時のように影踏みをしたくなる自分に気がつく。(ちょっと説明しておこう。私のふるさとは豪雪地帯。11月半ばから4月初旬まで雪に閉ざされる。外で遊べないばかりか太陽をほとんど拝めない日が続き、家は2階まで雪に埋もれ、昼でも電気を付けなければ生活できない。限られた季節しか味わえない夕方の影法師に喜びを感じたのである。なぜか、雪と影法師には、心が躍る。これも遺伝子の影響であろうか。)
幼い頃、村はずれで遊んで、幼馴染と影踏みしながら家路についたものである。そんなことが楽しかった。夕日に伸びる自分の影を見ながら、「こんなに足が長かったら、人生が代わるだろうな。」など考えていたような気もする。
今、60歳になった自分の見る影には、子どもの頃の影とは違ったものを感じる。いつも、一緒にいるのに出しゃばらず、主張せず、静かに寄り添っている。でも、間違いなくそこにいる。まさに自分の分身が影である。
多く人がそうだったかもしれないが、私は今教えている生徒の年代から相当な期間、「もう一人の自分」を意識していた。自分で何かやろうとすると、もう一人の自分が、じっと見つめ「それでいいのか。」とか「噓をつけ」とか言うのである。うれしくてはしゃいでいる時でも、「いいきになって、恥ずかしい。」とかいって水を差してくる。表面に出てこないように押し込めるが、まさに影のように自分につきまとう。実在の自分と影の自分がうまく調和せず、かなりの年齢になるまで苦しい思いをした。自分の影に「お前か。」と蹴りや拳を入れたりもした。経験を重ね、少しずつ自分を表現できるようになると、もう一人の自分をあまり意識しなくてもよくなった。気づかないうちに成長・脱皮して、再生したように思う。そして、自分の影も意識しないで日常を過ごすようになった。誰にも他の人には聞こえない声が聞こえ、他の人には見えないものが見えるように感じることがあると思っている。人は皆、内なる自分を見つめ、影のようにつきまとう自分を決して見捨てない。もう一人の自分は、影となっていつも現在の自分を見つめ問いかけてくれる大切な存在でもある。生徒のみなさんも、「もう一人の自分」を決してないがしろにしないで欲しいと思う。
また、影は、季節や時間によって見えないことがある。しかし、影はいつも自分の足元にいる。寄り添っている。見えたり、隠れたりしながらそっと、いつもそばで見守っている。18歳でふるさとを離れ、東京に出てきた自分をいつも見守っていてくれた存在でもあった。それは、ふるさとの両親の存在と同じだと思う。おそらく、自分がその存在を忘れかけている時も、両親はいつも思いを寄せてくれていたと思う。その父が、昨年9月に亡くなった。コロナ禍で、駆けつけることも、葬儀に参列することもできなかった。連絡をもらった日の夕方、グランドでクラブ活動をしながら、自分の影を見つめながら「ありがとう。」と心で手をあわす自分がいた。これからも、自分の影とともに父の恩を思い出すこともあるのだろう。
生徒のみなさんも、影のように自分をいつも陰で支えている保護者の方への感謝の気持ちを忘れないで欲しい。
私にとって、影法師は大切な心の支えである。
このようなことを考えられるようになったのも、仏教主義の駒沢学園に長く勤めるというご縁に恵まれたからと感謝し、「コロナ退散」を願い、本年も頑張ることを新年に誓う。

社会科 永井 俊道

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