「縁起が悪い」の?「死」について話すのって[社会科 永井]
2024/07/16
歴史が好きで社会科の教員になった自分が、今、「仏教」なるものも教えている。歴史と仏教は全く違うように思えるが、人の生き方を考える点では同じだ。
仏教を教えるうえで大切にしていることは、「死」について真剣に考えるということ。最初は、「死」といっただけで、クラス内が微妙な雰囲気になる。今の社会では、「死」を話題としない。子どもたちにとって、「死」は身近なものではない。「タブー」なのだ。そこに問題がある。
「死」を突き詰めると、いかに「生きる」かにつながる。仏教は、「いのち」につながる学びである。
自分の仏教の研究テーマは、「死」に関連している。暗い?
「死」を仏教のテーマにしようと考えるようになったのは、53歳で駒澤大学の科目履修生として宗教の教員免許を取得するために通ったときに、歴史の教員なのになんで仏教なんだろうと思いながら、レポートにと手にした『正法眼蔵』生死の巻との出会いだった。老いに向かいつつある自分に何かを与えた。
道元の著作である『正法眼蔵』の中で、生死の巻は非常に短い巻である。しかし、道元の生死に対する見方が、短い巻の中に言い尽くされている。この巻の書き出しの言葉は「生死のなかに仏あれば生死なし」である。私たちにとって生死の問題を究明することは重要で、だれしもが避けてはならない問題である。この世に生を受けたものはいつか必ず死をむかえるのも事実であり、どのように死を迎えるかということが大切である。それはどのように生きるかということでもある。
道元の生死に対する見方をぜひ感じてほしい。
- 生死の中に仏あれば生死なし。又云く、生死の中に仏なければ生死にまどはず。
- 生死をはなれんとおもはん人、まさにこのむねをあきらむべし。もし人、生死のほかにほとけをもとむれば、ながえをきたにして越にむかひ、おもてをみなみにして北斗をみんとするがごとし。いよいよ生死の因をあつめて、さらに解脱のみちをうしなへり。ただ生死すなはち涅槃とこゝろえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。このときはじめて生死をはなるゝ分あり。
- 生より死にうつると心うるは、これあやまりなり。生はひとときのくらゐにて、すでにさきあり、のちあり。かるがゆゑに、仏法の中には、生すなはち不生といふ。滅もひとときのくらゐにて、又さきあり、のちあり。これによりて、滅すなはち不滅といふ。生といふときには、生よりほかにものなく、滅といふとき、滅のほかにものなし。かるがゆゑに、生きたらばたゞこれ生、滅きたらばこれ滅にむかひてつかふべし。いとふことなかれ、ねがふことなかれ。
- 仏となるに、いとやすきみちあり。もろもろの悪をつくらず、生死に著するこゝろなく、一切衆生のために、あはれみふかくして、上をうやまひ下をあはれみ、よろづをいとふこころなく、ねがふ心なくて、心におもふことなく、うれふることなき、これを仏となづく。又ほかにたづぬることなかれ。ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいえに投げ入れて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがいもていくとき、ちからももいれず、こころもついやさずして、生死をはなれ、仏となる。
自分が「死」を迎えるときに、「死」をこのように受け入れられるように、今を、自分の命をどう生かしていくべきか考えて生きていきたい。
社会科 永井