教員生活43年を終えて[保健体育科 鳥海]

昭和56年4月に駒沢学園女子中学高等学校に赴任し令和6年3月に定年退職を迎えます。中学3年の時に全国中学校バスケットボール大会を観戦し、将来、体育の教員としてバスケットボールの指導者になりたいと思ったのが始まりです。昭和56年3月に日本体育大学を卒業し、念願の教員として希望と夢を持って、昭和56年から昭和の64年1月まで世田谷区弦巻で教員生活を過ごしました。教員は、授業・担任・生徒指導・校務分掌・クラブ顧問などやる仕事が多いですが、当時の先生で島崎雅明先生(英語科・陸上部顧問)、松沢好久先生(体育科・バレーボール部顧問)の先生方の背中を見てまたご指導をいただいて今の自分が有ります。特に松沢先生には心身共に鍛えられました。世田谷時代は、グランドも狭く体育館もない環境でしたが、工夫をして授業を行い、クラブ活動では雨の日は校舎内で体力作り、休日は大学の先輩の松田登先生(当時:佼成学園女子高等学校教諭・バスケットボール部顧問)に合同練習や試合などでお世話になり、63年の総体予選では部員8名で東京都のベスト8決め(東京都340校登録)の試合まで進める様になり、体育館がなくても工夫次第でできる自信につながりました。

平成の時代になり、東京都稲城市に全面移転し環境と施設は申し分のない総合学園となり、授業ではタータンのトラック(1周300M)と人工芝のグランド、体育館(バスケットボールコート2面)を最大限に使った授業を展開し生徒たちの体力向上に励みました。クフブ活動でも、体育館ができ、より一層頑張ろうと気持ちで取り組みましたが、中々好成績を出すことができませんでしたが、指導歴26年目の平成19年の総体予選におきまして目標のベスト8に入賞し生徒たちの喜びの顔は今でも鮮明に覚えております。また関東大会に出場できるチャンスは、4回ありましたが自分の指導力不足で逃したことは生徒たちに対しまして申し訳ない気持ちで一杯です。

自分の考えは、全国優勝をしようが1回戦負けでも生徒たちが3年間満足をして卒業をして行き、次のステージでチャレンジをしてもらいたいということです。
常々思っていることは、生徒たちに自分の行きたい学校、行った学校に誇りと母校愛を持つことだと思います(こんな学校に来たくなかったとか、行く学校がなかったとか寂しい言葉を聞きます。在校生を満足させることが一番だとも思います)。
今の世の中、大変な時代になっておりますが、教員というプライドを持つことと声掛けなどでコミュニケーションを図ることも重要だと思います。
今までに会った先生方、生徒たちが宝であり、思い出です。
次のステージは、都立高校で男子バスケットボール部の部活動指導員をやりながら、趣味の釣りとキャンプを孫たちとやっていけたならと思っております。

GoGo駒女。
43年間、ありがとうございました。

保健体育科 鳥海

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