シェイクスピアの悲劇の検証

「ハムレット」にみるルサンチマン的系譜

ルサンチマンとはデンマークの思想家キエルケゴールにより確立された哲学上の概念であり、主に強者に対して、弱い者の憤りや怨恨、憎悪、非難の感情をいう。生理学的にいえばそれは一般に働き出すための外的刺激を必要とするように、ルサンチマンが成り立つためには対立的な外界がいる。また自らが弱者であることが絶対条件として求められる。ある意味、復讐はルサンチマン精神の最たる事象であると言える。
シェイクスピアの作品の中にはルサンチマン的登場人物を見出すことはたやすい。復讐劇と呼ばれるものは全てその要素を内包している。また『リチャード三世』のように歴史劇においても地位的嫉妬に限らず、自らの身体的嫉妬に起因するものも多く見られるが、『ハムレット』という作品に限定し、その中でも特徴がいたって顕著であり、また繊細である登場人物(ハムレットとオフィーリア)を取り上げてみよう。

1.ハムレットのルサンチマン的素養とは何か

ハムレットがルサンチマンを抱いていたのは明らかである。ハムレットは王位継承者として社会的強者であることが約束されていたにもかかわらず、最初から弱者として登場している。この逆説的な展開は十分に悲劇的要素を予見させることになる。ただ社会的、人間的に他者との関わりにおいて、誰もがこの二面性を有することは至極自然であり、ハムレットとて、人である限り例外であることを免れない。シェイクスピアはそのことを十分認識している。確かなことは、ハムレットは王子であり、継承者としての社会的立場が余りにも大きな比重を占めていたために、我々が弱者としてのハムレットを見るとき、改めてそのギャップに驚かされるのである。ハムレットの心象のなかに、人間的弱者に追い込まれ、行き場を失くしてしまった苦悩や葛藤がはっきりと見てとれる。むしろそのようにハムレットを窮地に陥れるように、始めから人間的弱者を生み出す何かが意図的に仕掛けられていたのではないかと思わせる。例えば前王の死は既存の約束事として始まっている。哀れにも現世に未練を残し、あの世に旅立つことさえできず、この世に彷徨出る亡霊として出現しているのだ。そして現王としてクローディアスという叔父が対立的外界として最初から存在している。さらには、実の母ガートル―ドまでも出し抜き己の妃として仕組ませている。例外にもれず、権力には付き物の人間の性癖までも担ぎ出している。このように強かに悲劇への下準備は整えられていたと言っても過言ではない。
ではハムレットを人間的弱者とみる唯一の根拠を挙げるとするならばそれは何であろうか。言うに及ばず、ハムレットに見られる優柔不断的行動がルサンチマンの精神状態を見事に表していることになる。ニーチェによればルサンチマンを持つ人間とは「本来の『反動』すなわち行動によって反応することが禁じられているので、単なる想像上の復讐によってその埋め合わせをつけるような徒輩である」と言われている。例えば個人が反社会的行為に及ぼうとする際、聊かの迷いや躊躇いという意識回路を経由して、実行に至るか或いは思いとどまるかのどちらかを選択する。この思いとどまるという意思決定はある意味善なる心の安全弁とも言えるもので、堕落への抑止力となる救済装置である。従ってこの安全弁が効かない場合は不幸な結果を招くことになる。しかし人間が持つ一般的な迷いや躊躇は明らかにハムレットの優柔不断に見るそれとは性質が異なるものである。これらの意思決定においては個人が客観的判断を下せる決定要因を見出さなければならないが、ハムレットにおいては亡霊という非現実的なものによって判断せねばならず決定要因と言うには甚だお粗末すぎると言わざるを得ない。せめて前王の死に目に会い、直接父の薄れゆく意識から真実を模索できるように設定することもできたはずである。なぜ亡霊なのか。少なくともこの亡霊の出現は軽々に済まさないようにしたほうが賢明である。
ただここで明らかなことは、シェイクスピアは生と死を現実と非現実とに対比させている点である。つまり亡霊の存在はあくまでも非現実的に扱うべきものであると言うのであり、現実との遮断を図って演劇を鑑賞するようにと求めているようにも聞こえてくる。とすれば、この非現実的なものに大きく左右されているハムレットをどのように我々は理解すべきなのであろうか。シェイクスピアは現実を見つめて応えているが、ハムレットはそうではない。狂気の振る舞いや、復讐を躊躇ったりするあの一連の動作は、非現実的要因が故に当然の成り行きと見るべきなのであろうか。それともやはり何か作為的なものが潜んでいると考えるべきなのだろうか。確かに『ハムレット』は始終亡霊という非現実的なものによって支配されている劇であることは明らかである。どの場面においても常にそのことが頭の中に付きまとってくる。逆に非現実的な世界に目を向けるべきだと我々に示唆しているようにも感じ取れるのである。いずれにせよ、復讐の決定要因を欠くハムレットのあのような動作の反動は想像上の復讐だけで埋め合わせるというルサンチマン的精神構造そのものであると言えよう。
ハムレットは結果的には社会的な強者の立場から最後は復讐を成就させるが、それは「社会的に強者であれば、嫉妬や反感といった感情に主体的に行動することができるため、フラストレーションを克服することができる。そのため仮にルサンチマンの状態に陥ったとしても、一時的なものでしかない」とするニーチェの分析と符合する。しかしたとえ一時的なものにせよ、ハムレットは人間的弱者であったことには違いない。最初から言い知れぬフラストレーションを抱えルサンチマン状態から抜け出せないでいたハムレットは、敵を想定し、その対比として自己の正当性を主張するイデオロギーを構築していったことになる。ルサンチマン状態でいるハムレットはフラストレーションを肯定し、何もできないでいる自身を正当化するようになる。ハムレットが前王の亡霊から真相を聞かされた後にホレイショーに誓わせた台詞「たとえおれがどんな奇矯なふるまいをしようと、……気違いじみた態度をわざと見せねばならぬこともあろうが……」には抑圧された「反動」としか思えない弱者の心理が潜んでいることが分かる。この反動はハムレットにおいては婉曲的な筋道を構成し、偽悪的態度へと進化を見せる。これが直接的行動を禁じられている精神状態から考え出された反動である。すでにそこには強者としての威厳などまるで感じることはできない。惨めなまでにルサンチマン状態に陥っているハムレットは王妃に向かってこう呟く。「ありとあらゆる悲しみの姿、形、表情も、私の真実を表してはいません」と。だが同時にハムレットは「だが私の心の中には見せかけを超えるものがある」と強者たる片鱗をも仄めかしている。このように自分の陥っている状態を正当化しようとする願望こそまさに奴隷精神の特徴であり、奇遇にも彼はそれをも持ち合わせていたのだ。
従ってハムレットは強者でもあり弱者でもあったと言うのが一番正しいことなのかもしれないが、まさにこの二重の精神構造が縺れ合う時に彼の優柔不断さが生じ、しかもそのことで自らの生命だけでなく多くの犠牲を払うことになってしまう運命が待ち構えていることになる。まるでこの犠牲が精神の浄化を謀るためになされたかのように見えてくるのはなぜなのか。そして非現実的な膜で覆われている『ハムレット』をどう読み取ればいいのか。またシェイクスピアがハムレットにこのようなルサンチマン的精神構造を敢えて取らせた意図は何であったのか。

2.オフィーリアのハムレットに対するルサンチマンとは何か

オフィーリアについては、「尼寺に行け」の台詞に代表されるように、ハムレット側からオフィーリアに投げかけられた言葉が問題視されていることがほとんどである。それゆえオフィーリアは常に受け身の立場で描かれていて、彼女の存在意義さえ問われてもおかしくないほど控えめに扱われている。既成事実として、唯一ハムレットの恋人としての存在が与えられていることだけは明白であるものの、ロミオとジュリエットのような情熱的に燃える恋を彷彿させるような感性はこの2人の間には見られることはない。それとは逆にハムレットに対するオフィーリアは、まさに孤立を極めたヒロインと呼ぶに相応しいものがある。2人の関係は最初から見せかけの情熱を強いられているようで、互いに交わされる言葉にもよそよそしさが付きまとっている。そして最後には叶わぬ恋に憔悴したオフィーリアが溺死という結末を迎える時でさえ、何故か一貫して悲劇性を伴って心に響いてはこないのである。墓場で偶然にもオフィーリアの埋葬に出くわし、そこに参列していたレイアティーズから真実を告げられた時のハムレットの言葉に注目してみればもっと驚きは増す。一度たりともオフィーリアに献身的な態度を見せたこともないハムレットは自分のことは棚に上げて、驚嘆か失意の余りこれまでのオフィーリアに誓ったなかでも比類ない愛を、さも真実味をもって切々と他に知らしめようと告白する。「おれはオフィーリアを愛していた、実の兄がたとえ何万人集まろうと、おれ一人の愛の大きさにかなうものか。」
もし本当にそう想っていたのならば、その後の場面展開において一度たりともオフィーリアへの追憶が語られていないのは何故なのか。真実の愛ならば簡単に冷めてしまえるものではないはずだ。どう考えても非常識なハムレットの無誠実さと、計り知れないほどの意識の歪を感じてしまうのである。皮肉にも、この2人の関係はそれぞれが点として存在しているに過ぎず、その2つの点が最後まで決して繋がることも融合することもない宿命を背負わされていたにちがいないと見たほうが賢明である。
では当時のエリザベス朝時代からジェイムズ朝にかけて、女性はどのような存在であることが求められていたのだろうか。またシェイクスピアはその点どのように認識し演劇に女性たちを反映させていったのであろうか。このあたりにルサンチマンの有無に繋がる手がかりが見出せるかもしれない。実はかなりシェイクスピアはこの点を意識していたようである。オフィーリアに見る受動性がエリザベス朝の理想的な女性像であったとする見方があるが、1590年から1625年の演劇は、心情的にはフェミニストであった。それはこの時代の新潮であるピューリタニズムが女性に対する考え方に広く影響を及ぼしていたからであった。オフィーリアの受動性は間違いなく他律的に備わったことは言うまでもない。しかし、女性が善悪の判断を下す自由というのは、まだ新しい概念であり、シェイクスピアの演劇では、肉体的にも精神的にも決して女性が男性から独立することを容認しなかった社会の中で、女性が孤立にどう対処するのかを、首尾一貫して探っていたようだ。オフィーリアはポローニアスやレアテーィズによって主体的に管理下に置かれ、独自の道徳的判断を持つようには教育されていなかったのである。「以前はおれもお前を愛していた」というハムレットの言葉に、オフィーリアはすぐさま「そのように、ハムレット様、信じさせて下さいました」とハムレットの正直さを確信する言葉で応えようとする。しかし、儚(はかな)くもハムレット自らの言葉によって、オフィーリアが自分の判断に頼ることを戒められる。しかも「もともとお前を愛してはいなかった」という屈辱的な言葉でオフィーリアの夢は打ち砕かれることになる。この瞬間からオフィーリアの真実の苦悩が始まると考えてよい。すなわちこれはシェイクスピアが創造し、オフィーリアに課した孤立の始まりであったと言える。「とすれば私の思い違いはいっそう惨めなものに」というオフィーリアの台詞は初めて自己の判断に基づいた自立的発想であり、自己破滅への処女航海でもあった。
ルサンチマンは外的刺激に対する弱者の根源的な意識の波動として現れるものであり、個々の性格なり状況によって可視的にも不可視的にも作用するものである。その点受動的に去勢されているオフィーリアにはルサンチマンが芽生える余地はなかったのである。そこに主体性が備わっていない感情はその範疇から除外されることになるからである。だからオフィーリアはいつまでも操り人形だったと言われてもおかしくはない。しかし、この自立的な判断を下したことから、オフィーリアはハムレットにルサンチマンを抱き始めるのである。オフィーリアは歌う。「悲しいくやしいああ情けない、これではあんまりひどすぎる、それが男と思ってみても許す気持ちになれようか」と。もちろん男とはハムレットのことだが、ここでは女性からすべての異性に向けられた哀愁歌のようにも聞こえてくる。オフィーリアにとってはこれまで教育されて身についていた男性の絶対的権威という常識は何よりも居心地のよいものであったはずだが、孤立を味わった瞬間に女性の社会的尊厳に目覚め、あらためて自分を客観的に見つめる機会を見出さねばならなくなったのである。しかし、元々道徳的判断もつかないオフィーリアにとっては本性に身をまかすしか為すすべががなかったのだ。オフィーリアは自分にとって裏切り者であり、父ポローニアスを死に至らしめた犯罪者、ハムレットをあらためて外的刺激と認識し、憎しみを覚えるようになっていくことになる。
だがオフィーリアほど弱者ルサンチマンに相応しい人物は他にはいない。彼女は、強弱の2つの精神領域を有するハムレットのようにルサンチマンを克服できるような性格的要素は何一つ持ち合わせてはいない。ハムレットにむかって剣を刺し違えるなど全くあり得ないことなのである。しかもハムレットとガートル―ドのクローディアスに対するルサンチマンと比較しても、オフィーリアの場合だけがルサンチマンを誘引する要因が始めから仕組まれていないことがわかる。すでに2人は恋人関係にあるとして、将来を約束されていただけであり、この状況において問題は何もなかった。従って、オフィーリアの場合は、全て劇中のハムレットの行動から受動した二次的要因によるものであり、ハムレットの動向と常に連動するようになっている。従ってルサンチマン状態にあってそこから抜け出すことができない弱者オフィーリアは必然的に単なる想像上の復讐によって埋め合わせをするようにしかならない。
オフィーリアにとって自らを正当化する手段は唯一歌でしかなかった。オフィーリアにとって歌は意思を諮(はか)る言葉ではなく、意思を翻弄する狂言のようなものであったとしか思えない。数々の美しい花々や鳥を並べたてて、まるで普段言葉を使う機会を多く与えられていないことへの不満を本能的に解消しているかのように絵空事に興じているのだ。この若い娘の意識下に埋もれていた一途な感情が反動となって噴きあがったとき、それは歌となって彼女の口から湧き出てきたのではないか。そして、これまで大きく立ちはだかってきたジェンダー的歴史的制約を無視するかのようにことごとく薙ぎ倒していったのである。狂気の戯れと思われていた歌は亡き父ポロー二アスに向けられた惜別の歌であると、兄のレイアティーズをはじめだれもが憐れみを抱いて聞いていた。だが、オフィーリア自身にとってこの歌は別の意味を持つものではなかっただろうか。実はハムレットにむけられたものをも内に秘めながら、それはそこはかとなく哀れをさそう可憐な美の装飾でカモフラージュされていたのではないだろうか。それでもオフィーリアはハムレットの真意に問いかけようとして、歌にのせてハムレットとの心的同化を試みたように思える。異なる犯罪者でありなが、同じように父を殺された者同士の気持ちを探らんとするオフィーリアの真の抵抗だったのではないだろうか。
はたして「可愛い、可愛いロビンさま」と歌に詠むロビンとは父ポローニアスのことだったのだろうか。ならば年老いて死した父を想い、いまさら可愛い、可愛いなどと歌う娘がいるだろうか。そしてロビンとはヨーロッパロビンという胸にかけて赤色の毛色をしている駒鳥のことを言うが、十字架に架けられたイエス・キリストの痛みを癒すために側で歌いながら、茨の冠をはずそうとしてイエスの血がその胸を赤く染めたという伝承の鳥である。また、イギリスのウイリアム2世が狩猟中に胸を従者の矢で射られて亡くなったことを揶揄したのが起源ともされている鳥である。また農民と領主の闘争にあって、農民の見方となった義賊、ロビンフッドを想起させたりもする。いずれも、英雄的象徴としての意味合いをもつ鳥であることからすれば、クローディアスの従者として陰に隠れて諜報しているような輩、ポローニアスを血塗られたロビンであると想像するのはかなり無理がある。この鳥は敵のオスが迷い込むと冷酷なまでに、時には相手が死ぬまで攻撃を続ける。他種の鳥さえ、特に理由もなく攻撃するといった行動もとる。まさにこれはハムレットの行動と酷似してはいないだろうか。そして「あの人帰ってくるかしら?……いえ いえ死ぬまで待ったとて死んでしまった人だもの あの人はもう帰らない」と嘆くオフィーリアの歌に本心を見るのである。死んでしまった人とはもう2度と自分のもとには帰らないと諦めたハムレットのことであり、それをメタファーとして悟られないように歌っていたのではないだろうか。それならばオフィーリアはどこまでも脆弱にしか映らない。なぜなら想像上の復讐すら成し遂げることができないオフィーリアを目撃してしまうからである。そこにはルサンチマンを抱いているが抱いていないオフィーリアが見えてくる。これもオクシモロンなのか。
オフィーリアは終盤こう考えていたのではあるまいか。ハムレットから完全に自らの気配を消し去ってしまうことが自分を正当化する弱者としての最終的な復讐だと。つまり死の床がそれだと心に決めていたに違いない。しかし、1つだけ計算違いが生じたようだ。ここに至って、それはもはや復讐という意味合いではなくなったという点である。オフィーリアは穏やかな死を迎えているではないか。むしろ穏やかな死を迎え入れたというべきかもしれない。オフィーリアは思いの丈を歌い沈黙してしまう。あとは何も語ってはいない。おそらく夢を見ていたのではないだろうか。オフィーリアは流れゆく小川に永遠の想いを馳せるのである。ハムレットに抱かれ彼の意識の中に沈んでいく自分を。そしてハムレットもそれに共鳴している。あとは沈黙と。

英語科 井下 広

新着情報:新着投稿一覧へ