『修証義』における有限と無限の写像のパラドックス[数学科 山口]
2026/03/05
本校では、仏教式典や坐禅の折に、みなで声を合わせて読む経典がある。『修証義』である。これは明治時代に編纂されたものであり、我々が「お経」と聞いて連想する難解な漢文とは異なり、現代人にも比較的意味が捉えやすい。その中に、時間論に関する驚くべきパラドックス(逆説)が記されている。
其中一日の行持を行取せば一生の百歳を行取するのみに非ず、百歳の佗生をも度取すべきなり
たった一日の修行が、一生、さらには無限の転生(佗生)をも救済するというこの教えは、一見すると宗教的な誇張のように思える。しかし、現代数学の「集合論」と「写像」の視点からこれを読み解くと、そこには「有限の中に現成する無限」という構造を見出すことができる。
まず、集合論の開祖ゲオルク・カントールが示した「対角線論法」を想起したい。彼はこの手法により、実数の集合が自然数の集合(可算無限)よりも高次の濃度を持つことを証明した。ここで特筆すべきは、無限に広がる実数全体の集合 R と、いかに微小な線分であっても有限の開区間 (−π/2, π/2) の濃度は等しく、共に「連続体の濃度 𝔠」を持つという事実である。
つまり、数学的には「一日の時間」という有限な線分は、その内部に「無限の宇宙」と同じだけの情報量(点の数)を既に含んでいるのである
この「有限な区間から無限の全体へ」の接続を鮮明に記述するのが、例えば高校数学で習う三角関数のタンジェント(正接)による写像である。
関数 f : (−π/2, π/2) → R をf(x) = tan x と定義すると、これは有限な開区間を無限の実数直線全体へと対応させる全単射(バイジェクション)となる。全単射とは、中高生の言葉で言えば「定義域と値域の要素が、漏れなくダブりなく、完全に1対1に対応している状態」と言い換える事ができる。
この写像において、変数が定義域の端点(極限)へと近づくとき、値は無限大へと発散する。これを道元禅師の「行持」の文脈で捉え直せば、一日の修行を単なる物理的な24時間(線分)の長さとしてではなく、その一瞬々々の刹那に「深さ(勾配)」を与える行為として定義できる。教室に掲げられている「今を全力で生きよう」という文章の背景には、修行者である我々が今この瞬間に無限の深さを見出すとき、その一日は写像 f を通じて、時間軸を越えた「百歳の佗生」という無限の領域へと射影されるのであるという構造が隠されていたのかもしれない。
近代数学が記述したこの知見は、一日の行持が宇宙的な広がりを持つという宗教的直観を、論理的に裏付けている。また逆に、この数学的構造と相似な真理が、道元禅師(あるいは遥かそれ以前の仏教者たち)に見出されていたことは、興味深いことこの上ない。
数学科 山口
