奪うことと手放すこと[仏教科 T.N.]
2025/12/18
高校3年生の仏教の授業では「宗教」について学んでいます。今回は、宗教の授業を通して私自身考えたことを記します。
ユダヤ教には、モーセが神から授かった十戒があり、その中に「盗んではならない」という戒めがあります。
仏教にも、仏教徒が守るべき五戒があり、その中に不偸盗戒 (盗んではいけない)という戒めがあります。
では、なぜ「盗んではいけない」のでしょうか。なぜ2500年も前から、どの宗教も共通してこの戒めを語り続けてきたのでしょうか。
盗むと、確かに目の前の欲しいものは手に入ります。しかし、その代わりに人は大切なものを失ってしまいます。自分の心がすさみ、むなしい気持ちが残るのです。
盗まれた人を傷つけるだけでなく、実は自分自身の誇りや誠実さを手放してしまっているからです。「欲しいものを手に入れたはずなのに、心は満たされない」――宗教が「盗むな」と教えてきた背景には、そんな深い人間理解があります。
ここで、仏教の修行者の生活を少し見てみましょう。出家者が持つことを許されるのは「三衣一鉢(さんねいっぱつ)」と呼ばれる三種類の衣と一つの鉢だけです。
持ち物が多いと心が落ち着かず、守ることにとらわれ、欲望が広がっていくからです。
人間の欲望には限りがありません。だからこそ、最小限の持ち物で暮らし、心と向き合う修行が大切にされてきました。もう一つ大切なことは、修行者といえども人間は社会の中で生きているという点です。
修行は一人ではなく、共同体の中で営まれます。もし共同体の中で「盗む」という行為が起これば、安心して生活できず、集団が成り立たなくなってしまいます。戒めが必要なのはそのためです。
多くの宗教は「盗むのではなく、与えること」を大切に教えています。与えれば、自分の手元のものは減ります。しかし不思議なことに、心は豊かになり、幸福感に満たされていきます。
差し出した時に相手から「ありがとう」と言われると、心が温かくなります。だからこそ、古くから「盗むな、与えよ」という教えが伝えられてきたのでしょう。
私たちの日常でも同じことが言えます。席を譲る、困っている人に手を差し伸べる――そんなささやかな「与える」「手放す」行為をしてみると、手放したはずなのに、むしろ心が満たされ、安らぎが生まれることに気づきます。そしてそれは、自分も他者も幸せにする生き方につながっていきます。
「奪わない」「与える」という視点から宗教を見ると、単なる決まりではなく、人間の心の働きを深く見つめた教えであることが分かります。
宗教の歴史を学ぶことは精神の歴史を学ぶことであり、自己理解にもつながっていきます。生徒にもその面白さを発見してもらいたいです。
奪うことで人はどんな心になるかを知り、手放すことで、実はもともと幸福に満たされているという「こころの平和・平安」に気づきます。――そのことを、ぜひ日常の中で感じてみてください。

手放したその先に、無限の世界が広がります。
仏教科 T.N.