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日本文化の窓

なるほど!?日本文化

雪
雪景色のキャンパス

 この冬は暖冬のようですが、二月に入って都内でも積雪がありました。交通機関に影響が出たり、転んで怪我をする人もいて、よろこんでばかりはいられませんが、雪が降ると何となく心楽しいものです。登校中の小学生が空き地の雪の原に寄り道して、嬉しそうに何度も振り向いて足跡を確かめている姿を目にしました。

 大殿の この廻(もとほ)りの 雪な踏みそね しばしばも 降らぬ雪ぞ 山のみに 降りし雪ぞ ゆめ寄るな 人や な踏みそね 雪は(『万葉集』巻19・4227番歌)

 この歌は、天平時代の高官、藤原房前(ふささき)が周囲の人に語った言葉を三方沙弥(みかたのさみ)という人が長歌に仕立てたもの。そういえば音数も5・7のリズムからは外れています。現代語に直して見ると次のような具合です。

 御殿の、この周りの雪は踏んではなりませんぞ。しばしば降る雪ではないのだ。いつもは山だけに降っていた雪だ。ゆめゆめ近寄るでないぞ。そこの人、踏んではなりません、この雪は。

 まだ、だれの足跡も付いていない真っ白な雪を前に喜んでいる藤原房前の笑顔が浮かぶようです。「大殿」は一般的には天皇の宮殿を指す言葉ですから、時の聖武天皇に美しいままの雪景色を御覧にいれようという気持ちから、「踏んではなりませんぞ」と人々に呼びかけたのかもしれません。
 さて、美しい雪景色をそのまま眺めて愉しむか、それともつい踏んでみたくなるか、あなたはどちらでしょう。

(三田 誠司)
2010年2月12日

針供養 ─ありがとうの言葉を添えて─

針供養

 皆さんは「針供養」をご存知でしょうか?
「針供養」とはその名の通り、針をいたわり供養する日本の伝統行事で、2月8日(もしくは12月8日)に行われます。その日は古い糸や錆びた針、折れた針を豆腐やこんにゃくに刺して祭壇に奉納するとともに、裁縫の上達を祈ります。供養とはインドのサンスクリット語「プージャナー」から来た言葉で、「尊敬する」「崇拝する」という意味です。

 日本には民間行事として、いろいろな供養日があります。長い間親しんで古くなった人形を奉納する「人形供養」、農耕のために殺生した虫の命をなぐさめる「虫供養」、その他に「魚供養」「包丁供養」「時計供養」「はさみ供養」「うなぎ供養」「筆供養」「めがね供養」など実にさまざまです。日本人はこのように人間以外の生物はもちろん、あたかも生活の道具にまで命が宿っているかのように、衣食住のすべてを大切に扱ってきました。大切に使ってきた、いや使わせてもらったモノだからこそ、それが働かなくなったとき、ありがとうのひと言を添えて供養する、その代表的行事が「針供養」なのです。
母の名の残る尺差し針供養  ──  金原登志子

 昨今、量販店に出かければとても安く、しかも素敵な服が簡単に手に入る時代です。もはや家庭で針仕事をするお母さんも見かけなくなりました。ましてや親子何代にもわたって使い続けてきた道具や身のまわりの物も減り、両親や祖父母の姿を思い起こす機会も失っていることでしょう。でもどんな時代になっても、役に立たなくなった道具を簡単に捨て去るように、人はこころまで捨ててしまってはいけません。きっと針一本をいとおしむことができれば、人を思いやり、人を愛することもできるはず…。「針供養」はそんなメッセージを今に伝える行事なのです。

(千葉 公慈)
2010年1月25日

おせち料理

おせち料理

 正月は五穀豊穣の歳神を迎え、新年の幸福を授けてもらう行事です。おせち料理は、もともと歳神にささげるための料理でした。このため、重箱には祝い肴と呼ばれる縁起のよい食べ物が詰められるようになりました。祝い肴は三つ肴ともいわれるように、三種類の料理が好まれました。祝い肴とは、関東では黒豆、数の子、ごまめを指し、関西では黒豆、数の子、たたきごぼうをいいます。

 おせち料理の重箱には黒豆、数の子、ごまめといった祝い肴をはじめ、栗きんとん、伊達巻、蓮根、昆布巻き、海老など、普段は口にすることがない食べ物が詰められています。

 黒豆は「まめに働き、まめに暮らせるように」、数の子は「子孫繁栄」などの意味がこめられた、縁起のよい食べ物である、こんなことを聞いたことはありませんか?このように意味付けられるようになったのは、江戸時代の頃からだといわれています。

 「ごまめ」は片口鰯を甘辛く煮詰めたもので、「田作り」ともいわれます。これは鰯を田植えの際の肥料にしたところ、米が五万俵もとれたといういわれがあることから、豊作の願いがこめられていました。栗きんとんには、栗の色が黄色いこことから黄金色の小判を意味し、財産がたまるようにとの願いがこめられています。伊達巻は、巻き物が書物や掛け軸に通じることから知識の発達を願い、蓮根は、穴がたくさん開いているので、その穴を通じて将来の見通しがきくという縁起をかついでいます。このほかにも、昆布巻きには、喜ぶ、また子生(子供が生まれる)という意味があり、海老には、腰を曲げて進むことから、老人にたとえられ、長寿を願う意味があります。

 お正月にはおせち料理にこめられたさまざまな願いを思い起こしてみてはいかがでしょうか。

(皆川 義孝)
2009年12月25日

おはぎとお彼岸

あじざい

 昔から「暑さ寒さも彼岸まで」といわれる通り、過ごしやすい季節になりました。三月は春分の日、九月は秋分の日を中日(ちゅうにち)として、それぞれ一週間を春と秋の彼岸会(ひがんえ)と呼びます。彼岸とは、古いインドのサンスクリット語「パーラミター」からきた言葉で、「彼岸(さとりの世界)にいたる」という意味です。

 このお彼岸というしきたり、実は仏教誕生の地のインドにも、禅宗の起こった中国にもありません。つまり日本独特の宗教文化なのです。春は田おこしや種蒔きの頃、秋は実りの収穫の頃がこのお彼岸にあたりますが、農耕文化を中心とする日本では、農作業の節目ごとに生活の安寧を祈り、大自然の恵みにも感謝してきました。またこの時季には、真西に沈む美しい夕陽に、西方浄土への往生を願う信仰もありました。こうした日本ならではの自然崇拝や仏教思想が絶妙に混じり合って発展し、お彼岸という文化になりました。すでに平安時代の中頃には、お寺に多くの人々が参詣して彼岸会が行われていたといいます。

 ところでお彼岸の供え物といえば「おはぎ」です。赤いあずきは災いを除ける霊力がある邪気払いの食べ物として信じられ、いつの間にかご先祖さまへの供養と結びついたようです。春は牡丹の花にちなんで「ぼたもち」、秋は萩の花から「おはぎ」と季節で呼び名を使い分けますが、いったいどこが違うのでしょうか?

 こしあんを使ったものをぼたもち、粒あんをおはぎとする向きもありますが、地方によってはその逆もあり、あんではなく、中のお米のつぶし具合で呼び分けている場合もあるなど、実にさまざまです。

 ちなみに最近は一年中おはぎで通すお店が圧倒的に多くなりましたが、昔は春秋だけでなく、夏には「夜船(よふね)」、冬には「北窓(きたまど)」という粋な呼び名もありました。ぼたもちは餅つきとは違って「ペッタン、ペッタン」と音を出しません。そこで隣家に住む人には、いつお米をついたのか分からないので「つき知らず」と言われ、そこから夜は暗くて船がいつ着いたのかわからない、着き知らずの「夜船」になりました。同じように「つき知らず」が「月知らず」となり、月を知らない、つまり月が見えないのは北側の窓というわけです。日本人の抜群な言葉のセンスは、豊かな季節感から来ているようですね。                         

(千葉 公慈)
2009年9月14日

お盆と日本人 ─懐かしい再会のひととき─

あじざい

 ふだん何か良いことがあると「盆と正月が一緒に来たような」といいます。今ではお盆とお正月を切り離す向きもありますが、いずれも日本人にとってもっとも大切な二大年中行事です。一説にお正月は稲作中心の歳神(としがみ)祭り、お盆は「芋正月(いもしょうがつ)」とも呼ばれるように、畑作中心の文化にもとづく収穫祭として解釈されます。瓜やなす、サツマイモで作る牛馬はそのなごりです。季節の作物に命が宿ることへの喜びを分かち合い、その感謝のしるしに神仏や祖霊を我が家に迎え、家族とともにおまつりしたのです。

 日頃、多くの家庭ではお仏壇でご先祖さまをまつりますが、お盆には精霊棚(しょうりょうだな)を設けてねんごろに供養します。地域によって7月15日を中心に行う場合と、8月の旧盆に行う場合があり、多くは都市部で7月、農村部では8月に行われるようです。

   お盆の起源は諸説が知られます。有名な『仏説盂蘭盆経(ぶっせつうらぼんきょう)』(3~4世紀)には「七月十五日の自恣(じし:反省して自己の罪を告白し、懺悔すること)のとき、父母のために飯百味五果等を供え、世の甘美を尽くして盆中にのせ、十方大徳の衆僧に供養すべし…」と教えています。ただこの説には疑問がもたれ、最近ではイラン民族ソグド人が祖先の霊魂を「ウルヴァン」と呼んで祖先を迎えたことに由来する中央アジア起源説が有力視されています。

 中国では梁の武帝時代、大同4年(538)にお盆の行事は始まりました。日本では推古天皇の14年(606)7月15日に初めて盆会が催行されたと『日本書紀』では伝えています。その後、僧侶や貴族、武家階級などにも伝えられますが、今のような庶民に親しまれるお盆になったのは、どうやらローソクの普及などもあって江戸時代以降のようです。

 このようにお盆は、国境や民族、そして時代を超えて受け継がれてきました。天地の恵みに感謝しつつ、懐かしい故郷の人々やご先祖さまとの再会を果たし、時の流れの中でしみじみと我が身を振り返るかけがえのないひととき、それがお盆というしきたりなのです。

(千葉 公慈)
2009年7月27日

「たなばた」って何でしょう?

 七夕は、旧暦7月7日の夕べのことです。では、七夕と書いてなぜ「たなばた」と読むのか、皆さん疑問に思ったことはありませんか?

 「たなばた」の「たな」は「棚」、「はた」は機織(はたおり)の「はた」のことと思われます。民俗学者の折口信夫は、七月に村々を訪れる水の神を迎えるために女性が身を清め、川や海のそばに「たな」と呼ばれる桟敷を作り、そこで神のための衣を織るという風習があったと推定しています。その女性が「たなばたつめ(棚機つ女)」です。

  奈良時代になると、織女星と牽牛星の恋物語とともに技芸の上達を願う乞巧奠(きっこうでん)という風習が中国から伝わりました。これに古来の「棚機」の風俗が融合して、現在の七夕となりました。中国ではカササギが翼を並べて作った橋をわたって、織女が牽牛に会いに行くのですが、日本の織女は「たなばたつめ」の風習のとおり川原で牽牛の訪れを待ちます。「七夕」と書いて「たなばた」とよむようになったのはこういうわけです。

 七月七日の夜は、願い事を書いた短冊(たんざく)を笹に吊るし、願い事が叶うように祈ったり、織女と牽牛の年1回の出会いに思いをはせ、天の川を見上げたりします。今年の七夕は、日本古来の「棚機」の話も思い出しながら過ごしてみてはどうでしょうか。  

(皆川義孝)
2009年7月1日

アジサイ秘話 シーボルトとお滝さん

あじざい

 皆さんは、シーボルト(1796-1866)をご存知でしょうか?

 シーボルトは、江戸時代に日本に来たドイツ人医師です。彼が、梅雨どきに花を咲かせる「アジサイ」の学名の名付け親でもあります。

  アジサイは、日本原産のガクアジサイを原種とする植物で、学名は「ヒドランゲア・アクロフィラ・オタクサ(Otakzsa)」といいます。

 長崎の出島で暮らしていたシーボルトは高野長英、青木昆陽らに、医術や植物学などを講義していましたが、いつしか「お滝さん」という日本人女性を愛するようになります。二人の間には一人娘も誕生しましたが、シーボルトは故あって日本から退去を命じられ、単身帰国することになりました。

 帰国後、遠い日本に残した愛妻を日夜慕ってやまなかったシーボルトは異国の地日本に美しく咲いていた「あじさい」に思いを寄せ、自分が愛した「お滝さん」の名「オタクサ」をアジサイの学名にしたそうです。

 異国の医師と日本人女性のロマンスによってアジサイの学名は生まれました。 今年はアジサイの学名に秘められたロマンスを思いだしながら、この花を鑑賞してみてはいかがでしょう。

(皆川 義孝)
2009年6月2日

端午の節句と菖蒲

菖蒲

 5月5日の端午の節句には、柏餅やちまきを食べたり、菖蒲のお風呂に入ったりします。菖蒲は水辺に生ずるサトイモ科の宿根草で、長い剣状の葉は強い香りがあり、初夏のころに淡黄色の肉穂をつけます。

 菖蒲は強い香りで災いを払うとされ、室町時代以降になると端午の節句に菖蒲をうかべたお風呂(菖蒲湯)に入る風習が広まりました。お湯でやわらかくなった菖蒲を頭にまくと、かしこくなるともいわれています。

  古来日本では5月5日には田植えの前に田の神を迎えて豊作を祈るために、少女が巫女になり菖蒲で作った小屋に一晩こもって身を清めました。これを「葺き籠り」といい、5日もしくはその前夜を「女の家」「女の夜」「女の宿」とよびました。このように、5月5日は女性の日でした。

 武士が台頭する時代になると、菖蒲は「尚武(武を尊ぶ)」と同じ発音であることから、端午の節句には武士が疾走する馬の上から的に矢を射る流鏑馬(やぶさめ)をするようになり、子どもたちは菖蒲打ちなどを行うようになりました。このようにして、端午の節句は女性の節句から男の子の節句にかわっていきました。

 5月5日の日は菖蒲湯に入り、日本の伝統行事について想いをめぐらす日にしてはどうでしょうか?

(皆川義孝)
2009年4月28日


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