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日本文化の窓

なるほど!?日本文化

おくりびと

 先日、日本映画「おくりびと」がアカデミー賞外国語映画賞を受賞しました。この映画は亡くなった方への最後のお世話をする納棺師という職業を描いたものです。亡くなった人をどのようにしておくるのか、それは実に「文化」の問題です。

 現代の葬儀では火葬が一般的ですが、日本人で最初に火葬となったのは文武4年(700年)に亡くなった道昭という僧侶です。大宝3年(703年)には持統天皇が天皇として初めて火葬にふされました。

 持統天皇の夫、天武天皇の葬儀は約2年2ヶ月も続きました。日本の葬儀における最長の記録でしょう。壬申の乱に勝利して皇位を獲得した偉大な帝王でしたから、葬儀も盛大に行われたのです。天武天皇の死後は息子の草壁皇子が即位するはずでしたが、天武天皇の葬儀が終わると後を追うように皇太子も亡くなってしまいました。そこで、持統女帝は、皇太子の子(後の文武天皇)の成長を待つために自ら即位を決意します。古代には、このような中継ぎの女性天皇がいたのです。

 なぜ持統天皇が火葬となったのかは一つの謎です。でも、彼女は自分の葬儀について倹約するようにとの遺言を残していますから、火葬も本人の生前の意思に従ったのではないでしょうか。夫の葬儀の行なわれた2年2ヶ月の間には少しずつ変わり果てて行く遺体を目にすることもあったでしょう。その時の経験から、自分は真っ白な灰となる清潔な火葬がよいと望んだのかもしれません。

    春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山(『万葉集』巻一)

 これは、さわやかな夏の到来を喜ぶ持統天皇の一首。女帝の性格の一端がうかがえるようです。持統天皇は自分のための陵墓の造営も禁じ、天武天皇陵に合わせて葬られました。夫の棺と並んで銀の骨壷が大理石の石室内に置かれていたことが後代の記録に残っています。(三田誠司)

2009年3月2日

ひな祭り

 弥生のおだやかなこの季節を迎えると、思わず童謡「うれしいひな祭り」を口ずさみたくなります。

ひな人形

  あかりをつけましょ 雪洞(ぼんぼり)に
  お花をあげましょ 桃の花
  五人ばやしの 笛太鼓(ふえたいこ)
  今日は楽しい ひな祭り♪♪

 「ひな祭り」は、女の子の健やかな成長と幸せを祈ってお祝いする日本の伝統行事です。「雛(ひな)」とは小さい、愛らしいという意味で、古くは「ひいな」といいました。祭りの起源には諸説があります。平安時代の中頃、紙やワラで作った人形(ひとがた)に、災いや凶事を移して川や海に流す風習として行われていた「流し雛」も由来のひとつです。あるいはこの風習に、当時流行していた「ひいな遊び」と、中国から伝わった「上巳(じょうし)の節句」が次第に融合して、今のような「ひな祭り」になったという説も知られます。

 ちなみに「ひいな遊び」は、『源氏物語』や『枕草子』にも出てきますが、これは宮廷の女性や子どもたちのあいだで行われた、いわば「ままごと遊び」です。紙人形と、身の回りの生活道具をまねた玩具で遊ぶのですから、季節は春とは限りません。したがって3月の節句として「ひな祭り」が行われるようになったのは、室町時代とも江戸時代ともいわれます。

 こうした「ひな祭り」の歴史や風習に関心をもつことも、自分ならではの日本文化研究のきっかけになるでしょう。「おひな様のもうせんは、なぜ赤色なの?」「雛あられや菱餅にはどんな意味があるの?」「関東雛と京雛でなぜ飾り方が違うの?」「どうして桃の節句といわれるの?」…。毎年何げなく接してきた「ひな祭り」にも、さまざまな謎と真実が隠されています。人形に託した古人の願いに、あなたも耳を傾けませんか? (千葉公慈)

2009年2月23日

精進料理と懐石料理

京都研修旅行(宇治
 萬福寺)にて
魚鼓(ほう)…
禅寺で食事の時を告げる時に鳴らす
魚の形をした木製の太鼓
京都研修旅行(宇治 萬福寺)にて

 精進料理と言えば、肉や魚を使わない野菜中心の食事を連想するでしょう。もともと精進料理とは仏教の僧侶の食事のことです。インドの初期の仏教では、条件付きですが、肉も食されていました。ですから、精進料理イコール菜食主義というわけでもなかったのです。ところが、日本に伝えられた大乗仏教では、肉食そのものが禁止されていたので、日本の精進料理は自然と菜食中心となりました。

 鎌倉時代以降、禅の教えが本格的に伝えられるようになると、精進料理の影響をうけて和食そのものが劇的に変化します。平安時代までの料理では、魚や鳥も食べましたが、味付けが淡泊だったので、各自が塩等の調味料を足して食べていました。それに対し禅宗の精進料理は、肉や魚は用いませんが、味付けがしっかりしていて栄養のバランスもとれていました。そこで身体を動かすことの多いひとたちの間で、その調理法を真似るようになったといわれます。

 出汁で食材を煮込む料理法を生み出したり、味噌、醤油等の調味料を発達させたりしたのも禅宗のお坊さんたちです。タンパク質が豊富な大豆をつかった、豆腐、湯葉、納豆、油あげ、氷豆腐なども、精進料理から生まれたものです。

 懐石料理も精進料理と関係があります。本来、修行僧の食事は、朝、昼の二食だけでしたが、夜、坐禅をするとお腹が空きます。そこで石を暖めて懐に入れて空腹をしのぎました。やがて、ほんの少しだけ食事をするようになり、その夕飯のことを薬石と言うようになりました。それが、お茶を頂く前のほんの簡単な食事として茶道の世界で発展し、今日のような懐石料理が生まれたのでした。現在の懐石料理は、高級な料理となりましたが、これもまた、禅から生まれた文化だったのです。(佐々木 俊道)

2009年1月19日

富士山の煙

稲城市矢野口の石橋供養塔(1821年)より

 冬になって空気の透明度が増してくると、本学のキャンパスから真っ白な雪を戴いた美しい富士山の姿が見られるようになります。特に早朝、正門からまっすぐ西に見える、朝日を浴びて輝く山容は、神々しいほどです。

 平安時代に書かれた『竹取物語』にも富士山が出てくると言うと、驚く人もいるかもしれません。絵本などでは、かぐや姫が月の世界へ帰って行くところで終わっていますが、オリジナルの『竹取物語』には続きがあるのです。

 かぐや姫は、昇天する前に帝に手紙と不死の薬を残して行きました。帝はかぐや姫がいないのなら生きていてもしょうがない、不死の薬は無用だと言って、その薬に返事の手紙を添えて天に一番近い山で燃やすようにと勅使に命じます。手紙と薬を煙にして天に送り返そうというわけです。そこで勅使は、駿河国(今の静岡県東部)にある山の頂上に行き、帝の手紙と不死の薬を燃やしました。『竹取物語』は、「その煙、いまだ雲の中へ立ち昇るとぞ、言ひ伝へたる」という一文で終わります。

 この駿河の山こそが富士山です。『竹取物語』には、勅使が士を大勢つれて行って以来、その山の名前は「富士の山」になったとも書かれています。「士に富む山」で「富士山」ということでしょう。不死の薬を燃やしたから「ふじの山」というわけではないようです。ちょっと眉唾ではありますが、地名起源説話にもなっています。

 のちに、上総国(今の千葉県中部)で育った『更級日記』の作者は、京へと帰る道中、富士山を見たときのことを、「いと世に見えぬさまなり…山のいただきの少し平らぎたるより、けぶりは立ちのぼる」と書いています。彼女が13歳(1020年)のときのことです。平安時代の富士は、天の世界へと煙が立ち昇る神秘の山だったのです。(池田節子)

2008年12月22日

道しるべ

 江戸時代の後半期には、あちこちの路傍に、石仏や石橋供養塔などが建立されました。建てたのは、多くの場合付近に住む村人の有志でした。念仏講とか庚申講とか、信仰と娯楽を兼ねて集まった人々の名前が刻まれています。また堅固な石橋は実用的で多数の人が利用しました。その供養塔は、信仰のある有志が石橋を作った記念碑です。

 これらの中には道しるべを兼ねたものがあります。石のどこかに「東川崎道、北江戸道、西八王子道、南大山道」などと彫ってあるのです。そして、その方向をたどって歩いていくと、点々と石仏や供養塔がみつかり、江戸時代からの古道であったことが分かります。

稲城市矢野口の石橋供養塔(1821年)より
稲城市矢野口の石橋供養塔(1821年)より

 たとえば、多摩川の南側、南武線と平行に走る府中街道(409号)+川崎街道(9号)の場合です。現在片道二車線と歩道とがしっかり整備されていますが、そのかたわらに古い道がとぎれとぎれに続いています。その細い古道は、昔の幹線道路に当たるのでしょう。が、いまはその地位を新しい街道に譲り、昔ながらに車道歩道の区分があいまいな生活道路として生き残っています。

 現代の道しるべといえば、国や地方の行政が、道路管理者として設置している案内標識です。この公式の案内標識と、古い道しるべとの間には、決定的な違いがあります。古い道しるべは、民間の有志がいわば勝手に、自主的に作ったものだという点です。それも、どちらへいけばどこへ行くか知っている自分たちには不要ですから、もっぱらここを通り過ぎていく見ず知らずの人たちのためでした。

 自分たちの幸せを祈る気持ちを込めて、敢えて知らない人たちの役に立つはずのことをしていたのです。功徳をつむことを大切に思う広い心と、地域の誇りが感じられます。古い道しるべを、近くで探してみませんか。日本の道の文化の片鱗です。(菅原昭英)

2008年10月14日

箸と日本人

箸

 わたしたち日本人は、家族がそれぞれ自分の箸を持っている場合が多いのではないでしょうか。家族であっても箸を共用することはあまりないようです。しかし、カレーライスなどの洋食を食べるときには、自分のスプーン、自分の皿などと主張することはあまりありません。日本人がそれぞれ自分の箸をもつようになったのは、唇に直接ふれるものに敏感であるためでした。また、日本人は箸のような食器には使っている人の魂がのり移るとも考えていました。

 食事のとき、私たちは先端を細くした2本の箸を使用します。古くは、1本の竹材をピンセットのように曲げて使う1本の箸もあったのです 。2本の箸は、唐箸(からはし、中国の箸)ともいい、中国から日本にもたらされたといいます。奈良時代の平城京の遺跡の中で、大膳職(食事を用意した官庁)の建物付近やゴミ捨て場の跡から大量の箸が出土しています。日本ではまず平城京の官人社会で2本の箸が使われ始めたと考えられています。平安時代になると、京都の貴族から一般の庶民まで2本の箸を使うようになりました。

 では、どのように2本の箸を使っていたのでしょうか。平安時代のご飯の盛り付け方はお椀に高く盛りつける「高盛り飯」と呼ばれる盛り付けでした。現在、食べ物を高く盛る行為は神仏へのお供えものの習慣として残っています。そして、貴族から庶民まで2本の箸を高盛り飯につき立てて食べていました。現代では、この食事作法は霊膳の作法となっていますから、普段の食事で箸をつき立てるのは、大変無作法なこととされています。このように、平安時代と現代では箸の使い方には大きな違いがあったのです。 (皆川)

2008年9月4日

漱石とお菓子

日本文化学科Fさん手作りのお菓子です
日本文化学科三年文野さん手作りのお菓子です

 夏目漱石は『草枕』で「あの肌合が滑らかに、緻密に、しかも半透明に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ」と、羊羹を描写しています。また、『吾輩は猫である』では、藤村という店の羊羹を客の迷亭が「無雑作に頬張る」様子が描かれています。『坊っちゃん』の清が松山に行く主人公に「越後の笹飴が食べたい」と言うシーンが印象に残っている人も多いことでしょう。

 羊羹や笹飴だけではありません。漱石の小説には、さまざまなお菓子が登場しています。

 『門』という小説を例にあげてみましょう。この小説には都会の片隅でひっそりと暮らす夫婦の日常生活が描かれているのですが、主人公の宗助が大家の坂井からお礼にもらった菓子折の「唐饅頭を頬張りながら」妻の御米と話をしている場面をはじめとして、坂井の家を訪問して「護謨毬(ごむまり)ほどな大きな田舎饅頭」をごちそうになったり、「一丁の豆腐くらいの大きさの金玉糖の中に、金魚が二匹透いて見える」珍しいお菓子を、おめでたいものだからとすすめられたりする場面など、お菓子が登場するシーンが数多くあります。

 このような例を見ていると、お菓子が夫婦二人の生活を外の世界と結びつけるパイプの役割を果たしているようにさえ思われます。お菓子は甘い物好きだったと言われている漱石ならではの小説の小道具だったのかもしれません。

 新茶の香りを楽しみながら、この季節に「お菓子」と言うキーワードで漱石の小説を読んでみるのも興味深いことではないでしょうか。(渋谷)
※小説の引用は『新潮文庫』による

2008年5月20日

花まつりと灌仏

 

「花まつり」は仏教の開祖であるお釈迦さまの誕生をお祝いする行事です。古くから大切に営まれてきた日本の文化であり、仏像に甘茶を注ぐことから「灌仏会(かんぶつえ)」ともいわれます。

 ところで、この「灌仏」というしきたりは、どこから来たのでしょう。古いインドのお経には、お釈迦さまの誕生のとき、龍が天界から飛来し、産湯として甘露の雨を降らせて祝福したという物語があります。そこでインドや中国では、丁子などの香木を煮出した香水を産湯がわりに誕生仏にそそぎました。この香湯を原料となる植物の名から「ソーマ」とか、永遠の命という意味の「アムリタ」と呼びました。ちなみに「ソーマ」や「アムリタ」とは、仏教が成立するはるか昔からインドに伝えられる神聖な霊液です。神々が常用する不死の酒という伝説のもとに、その味は蜜のように甘いと信じられていました。

 日本では9世紀の中頃、すでに「灌仏」を行っていたことが『続日本紀』にあります。その後、室町時代には宮中や公家の年中行事として定着しますが、庶民がひろく「甘茶」をそそぐようになったのは、どうやら江戸時代に入ってからのようです。

 ユキノシタ科に属する植物の「アマチャ」は、見た目がヤマアジサイにそっくりです。名前はアマチャヅルにも似ていますが、関係はありません。「アマチャ」はその名の通り砂糖より数倍強い甘みをもつため、現在でもダイエット甘味料や健康飲料として人気があり、国内の年間消費量が約50トンもあるそうです。江戸時代の薬物書『大和本草(やまとほんぞう)』などにも記載され、小林一茶が愛飲して長寿を保ったことで知られます。9月頃に甘茶の葉を取り、日干しにしてから噴霧して発酵させ、再び乾燥させれば甘茶のできあがり。枝は挿し木にすれば簡単に根がつき、翌年には同じように収穫できます。 

あなたも温かい「甘茶」を淹れて、はるかな古代インドに想いをめぐらせてみませんか?(千葉)

2008年4月2日

ゲンノウの由来

 皆さんはゲンノウをご存知でしょうか。両端が平らな(片方にわずかな丸みがある)大型のかなづちのことです。実はこの「ゲンノウ」という呼び名は、源翁(げんのう)という禅僧の名が由来となっているのです。この禅僧の伝記『行状記』では次のように語られます。

 平安の昔、鳥羽天皇は「玉藻の前」という絶世の美女を寵愛しました。でも彼女の本当の姿は、インド、中国から飛来してきた九尾の狐(九つの尾を持つ狐の妖怪)だったのです。玉藻の前に心を奪われた天皇は日に日に衰弱し床に伏せるようになります。陰陽師たちがこの女性の正体を見破り、退治しようとしました。妖狐は致命傷を負いつつ逃げ出し、下野の国(今の栃木県)那須岳の麓で巨大な石に化身しました。この狐が化身した石は毒を発し、近くを通る鳥や獣、そして人間までもその毒におかされるようになり、この石は「殺生石」と呼ばれるようになったのでした。事情を知った源翁和尚(げんのうおしょう)は、殺生石におびえ、苦しむ人びとを救おうと、殺生石をうち砕き、石にこもっていた妖狐の霊を成仏させたのでした。

 この伝説から、石を砕くのに用いられるような大型のかなづちを「ゲンノウ」と呼ぶようになったといわれています。不思議なお話ですが、源翁和尚は実在した曹洞宗の僧侶ですし、話の舞台となった「殺生石」も栃木県那須郡那須町大字湯本に今でもあります。現在も少量ながら硫黄などのガスを吐き続けているそうです。(皆川)

2008年3月6日

こよみ

 昔の日本のこよみ(旧暦)は、月の満ち欠けをもとにしていました。ですから三日の夜には必ず三日月が見えましたし、十五日の夜は文字通り十五夜の月が出ていたのです(晴れていれば)。月は29.5日の周期で満ち欠けを繰り返しますから、1ヶ月が29日の月と30日の月を半々になるようにならべると、月の運行に沿った暦ができます。これが太陰暦です。この暦には今のような31日まである月はありません。

 この素朴な太陰暦だと、12ヶ月を合わせても354日にしかなりません。地球が太陽の周りを一周するにはご存知の通り365日と6時間ほどかかりますから、このままでは、暦と季節とがずれてしまいます。そこで、暦が大きくずれることを防ぐために、数年に一度、1ヶ月を足してやりました。不足分の調整のために加える月を閏月(うるうづき)といいます。たとえば、一月、二月、閏二月、三月というように並べるわけです。閏月のある年は、一年が13ヶ月あることになります。

 このように太陽の運行にも合うように調整した太陰暦を太陰太陽暦といいます。実際に日本で使われた旧暦はこの太陰太陽暦でした。現在の太陽暦を用いるようになったのは明治5年のことです。ですから、江戸時代以前の文献を読むときには、旧暦を意識しなければいけません。

 旧暦は、立春の日(太陽暦の二月四日)を基準として決められていました。けれども、月の満ち欠けに合わせたために、元日がぴたりと立春の日に重なることは珍しく、旧年のうちに立春の日を迎えてしまったり、新年になってもまだ立春にならなかったりしました。

 年のうちに春は来にけり一年(ひととせ)を去年(こぞ)とや言はむ今年とや言はむ

 『古今和歌集』の巻頭の歌です。「新年を迎える前に立春の日が来てしまった。さてさて、この一年を、もう去年と言うことにしようか、まだ今年と言うべきだろうか」。理知的な歌で、明治時代の正岡子規が批判したように文学として上々の作とは言いがたいのですが、面白い点に着目した歌です。(三田)

2008年2月21日

節分と豆まき

 春は大地の芽吹きとともに、私たちも思わず希望を抱く楽しみな季節です。この冬から春へと季節を分ける行事、それが節分です。本来は立春、立夏、立秋、立冬の前日をそれぞれ節分といいましたが、いつの頃からか、多くの日本人が営んできた農作業に季節の基準を設けるためでしょうか、立春の前の2月3 日だけを節分と呼ぶようになりました。

 節分の夜には豆まきが行われます。この豆まきの風習は、一説によると遣唐使によって中国からもたらされた「追儺(ついな)」の儀式が起源と指摘されています。「追儺」とは、紀元前3世紀頃の秦の時代、疾病や災害を鬼に見立て、桃の弓や葦の矢などで、それらを追い払う行事として行われていたものです。日本では8世紀初頭、疾病の流行を受けて「鬼やらい」が行われ、やがて民間でも行事化しますが、今のような「豆まき」のスタイルは、どうやら室町時代以降のようです。

 では炒り豆にするのはなぜでしょう。佐渡島にはこんなお話があります。昔、鬼退治をするために神様がやって来て、「一晩の内に金北山に百段の石段を作ることができれば、鬼の勝ち」という賭けをしました。すると鬼は夜更けまでに九十九段を築き上げます。慌てた神様が「東天紅!」と叫ぶと、つられて鶏たちが一斉に鳴き出し、鬼は朝になったとすっかり勘違いして「豆の芽吹く頃にまた来るぞ!」と悔しがりながら退散します。そこで神様は村人に豆が芽吹かない炒り豆にするよう伝えたそうです。

 このほか節分には、柊やイワシの頭を門に飾るなど不思議なイベントがたくさんあります。また地方独特の風習もあるでしょう。そこには意外な事実が隠されているかも知れません。(千葉)

2008年1月25日

左と右

 大相撲では、番付の東の力士の方が西の力士よりも上位にあるとされています。どうして東の方が西よりも上位にあると思われているのでしょうか。本来、相撲というのは朝廷の儀礼から始まりました。そこでは、天皇が北の方に南面して坐り、取り組みを見ることになっていました。そうすると、東側が左、西側が右となり、当時は左の方が上位とされていたために、相撲では東が上位であるとされたことによるものなのです。

 古代中国では「左遷」という言葉が象徴するように、右が上、左が下という認識がありました。それがいつの間にか、左が上で、右が下というふうに変わっていったのです。それを受け入れた日本の古代国家では、左大臣の方が右大臣よりも偉いというように、はじめから左が上で、右が下というようにしました。『江家次第』という平安時代の儀式書には、「左は天子方である」という記事があります。これなどは、左が上位にあることの説明として、後からこじつけたものなのでしょう。

 その結果、相撲とか射礼、歌合まで、かならず左方が勝つという「暗黙の了解」ができあがりました。昔の相撲はすぐには勝敗が決まらず、全部判定でしたから、明らかに左の力士が劣勢でも、天皇が「左の勝ち」と判断すれば、左の勝ちになったのです。『源氏物語』の絵合で藤壺が光と頭中将を左右に分けて争わせる場面がありますが、光を左とした時点で、実は勝敗は決まっていたということになります。藤壺があれこれ判定に介入してきたというのも、「天判」の一種と言えるでしょう。(倉本)

2008年1月10日

紫式部の由来

 平安時代、宮仕えしていた女たち(女房)は、本名ではなく女房名で呼ばれていました。父や夫の官職名や、夫の赴任先の地名で呼ばれたのです。たとえば、和泉式部は、夫の橘道貞が和泉守になったときに、一緒に和泉国に下ったことにちなんだ名前です。清少納言も本名ではありません。彼女たちの本名は伝わっていないのです。

 さて、紫式部が彰子中宮にお仕えした当初は、父藤原為時が式部省の役人であったことから「藤式部」(藤は藤原の藤)と呼ばれていました。が、『源氏物語』のヒロイン紫の上にちなんで、「紫式部」に変わりました。これについては、次のようなエピソードが『紫式部日記』にあります。

 後一条天皇誕生の五十日の祝いの宴席で、藤原公任が、「あなかしこ、このわたりに、わかむらさきやさぶらふ」(失礼ですが、このあたりに若紫さんはいますか)と紫式部に声をかけてきました。『源氏物語』の作者を、戯れに「若紫」(若紫巻の紫の上)と呼んだのです。「わかむらさき」については「我が紫」(私の紫さん)と解釈する説もあり、こちらのほうが、藤原公任という人の人柄も伝わってくるようで、もっとおもしろいと思います。当時の仮名の文章には濁点を表記しませんでしたから、「わかむらさき」「わがむらさき」両方ともありえるのです。

 ともあれ、藤原公任は当代きっての知識人ですので、この冗談が有名になり、『源氏物語』の作者の名前は「藤式部」から「紫式部」になりました。(池田)

2007年12月25日

ごちそうさま

 食事を頂いた後の挨拶は、合掌、礼拝して「ごちそうさまでした。」と言います。日本人にとっては、日常生活の中のあたりまえの行為です。

 「ごちそうさま」を漢字で書くと「御馳走様」となります。「馳走」はもともと「走って馳せ参じる」という意味で、やがて「用意のために駆け回ること」「駆け回って準備してもてなすこと」の意味となり、今のような「ごちそう」の意味になりました。

 ですから、「ごちそうさま」は、まず第一には食事をもてなしてくれた人への感謝の言葉なのですが、もっと深く考えると、今日この日、私が食事をこうして頂くことが出来たすべての原因、縁に感謝して述べる挨拶なのだということができます。

 食事を調理してくれる方、食材を販売してくれる方、食材を生産、獲得してくれる方、また、食材そのものを育んでくれる大地、海にまで、その縁は広がってゆきます。そのすべての縁に対して「ごちそうさま」と感謝するのです。

 私たちは、毎日の食事によって生かされています。私たち一人一人の命は、目に見える人、見えない人、地球、環境、大宇宙と繋がっているのです。こうした謙虚な気持ちで「生かされている」ことに感謝し、日々の食事を頂きたいものです。

 食事の挨拶というさりげない日々の営みを、その意味を自覚しながら、きちんと実践することが、食育の問題や、環境の問題を考え、少しずつでも解決してゆくきっかけになるのではないでしょうか。(佐々木)

2007年11月29日

縄文時代のイネ栽培

 日本史を勉強したことがある方なら、縄文文化は食料採集の時代、弥生文化は農耕の時代と習ったはずです。そして、日本の食文化を象徴するコメは、弥生時代になって大陸から伝来し、短期間のうちに日本列島に定着していったと教えられたことでしょう。ところが、事実は違います。イネの栽培は縄文時代からはじまっていました。

 昨今、資料を鑑定する技術の進歩により、さまざまなかたちで、縄文時代のイネの栽培が証明されるようになりました。コメ粒そのものが炭化して残った炭化米、土器の表面についた籾の圧痕などは、コメの存在をじかに知らせてくれます。現在では、それに加え、イネの花粉、プラントオパール(植物珪酸体)など、イネが存在したわずかな痕跡をも見逃しません。

 縄文時代のイネ関連の資料は相当数に達しています。そのなかで、今からおよそ6000年前の資料が最古のものといえるでしょう。6000年前といえば、縄文時代の前期に該当します。縄文人は古くからコメを食べていたのです。

 しかし、少し待ってください。縄文時代のイネ栽培と弥生時代の稲作とには決定的な違いがあります。弥生時代は水田でイネを育て、かなりの収穫を得ていました。弥生人にとって、コメは大切な食料源となっていたはずです。

 これに対して縄文のイネは、普通の土地で栽培されていたようです。しかも、ほかの雑穀といっしょに植えられていました。ちょうど、家の庭の片隅で園芸を行う、家庭菜園のようなものです。何といっても、ドングリに代表される森の恵み、イノシシ、シカ、魚介類などが縄文人の主食でした。イネは、縄文人の食料のほんの一部を占めていたにすぎません。

 イネの持つ意味は、縄文文化と弥生文化とでは決定的に異なっています。この点を踏まえたうえで、縄文時代のイネ栽培を見ていく必要があるでしょう。(小川)

2007年11月13日

秋の七草

 大学の授業も後期に入るころ、美しいススキの穂が秋風に靡く風景をあちらこちらで見かけるようになります。野原は美しい秋の花の季節を迎えます。みなさんは秋の七草をご存知でしょうか。

秋の野に 咲きたる花を 指(および)折り かき数ふれば 七草の花

萩の花 尾花 葛花 なでしこの花 おみなへし また藤袴 朝顔の花

 これは万葉時代の歌人山上憶良(やまのうえのおくら)が詠んだ七草の歌です。一首目は「秋の野原に咲いている花を指を折って数えてみると、ほら、七種類の花があるぞ」という意味。二首目の現代語訳は不要ですね。尾花は今のススキ。藤袴(ふじばかま)は薄紫の花をつける野草です。朝顔は諸説ありますが、桔梗のことだろうといわれています。

 この二首目は、五七七五七七というすこし変わった形の歌になっています。途中に「また」という語も入っていて、憶良にしてはぎこちない歌い方をしたものだと思われていました。でも、私の恩師伊藤博先生の『万葉集釈注』には、憶良が子供たちに秋の七草を教えるために作ったのがこの二首だという説が述べられています。特に二首目は、一首目が言うように実際に指を折って唱えてみると、「また」の意味合いがよくわかるというのです。つまり、右手で「萩の花、尾花、葛花、なでしこの花、おみなえし」と指を折りながら五種類の花を数え、ここで左手に移って、「それからまた、藤袴、朝顔の花。どうだ、七つあるぞ」というわけ。確かに指を折ってみると、「また」が絶妙な位置に来ることがわかります。

 うららかな秋の日、憶良おじいさんが、子供たちを集めて秋の七草を教えている、ほほえましい風景が伝わる歌なのでした。(三田)

2007年10月25日

いただきます

 日本の国土は山海の自然に恵まれ、世界で最も四季折々の美しさが楽しめる国といわれます。1968年にノーベル文学賞を受賞した川端康成は、「美しい日本の私」と題する記念講演の中で、次の歌を世界に紹介しました。

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり   道元禅師

 こうした豊かな自然の中で、日本人は太古から多くの精霊たちと対話をしてきたのです。祖霊崇拝や自然崇拝に支えられて、主に農耕を中心として営まれてきたのが日本文化なのです。それは、人が精霊という神々と向き合う循環の物語でした。

 生命は一体どこからやって来るのでしょう。太古の日本人は、その生命の源流を山の頂に仰ぎ見ました。それが山岳信仰という考え方です。有名なところでは、富士山、熊野三山、出羽三山、白山や御嶽山などがあります。そしてその山頂に集まる祖霊を「山の神(ヤマノサ)」と呼びました。

 「山の神」は田植えや種まきの季節になると、大地に命を宿すために山から降りてきます。これを「サオリ」といい、その時季を「皐月(サツキ)」、宿った苗を「サナエ」、さらには苗を植える女性を「サオトメ」と呼ぶようになります。この瞬間、「山の神」は「田の神(タノサ)」に変わります。さまざまに呼び名をかえながら、古代人は、米や作物の中に祖霊の姿を見出していたのです。

 そして祖霊がムラの田畑に宿るようになると、今度は自然という精霊たちの出番です。水神や火神の力によって、種は芽生え、苗は育ち、あるいは病気や災害を乗り越えながら、ようやく実りの秋を迎えます。

 私たち日本人が、毎日の食事のはじまりに「いただきます」と挨拶をかわすのは、本来的には、食べ物の中に宿る祖霊や自然の精霊そのものを頂戴する、という意味になるでしょう。自然に感謝し、今を生きる私の命に感謝する…。日本文化の学習は、そんな身近なことから始まるのかも知れません。(千葉)

2007年10月10日


言葉の意味

 なぞなぞ遊びではないが、「人が南に向いたとき、東に当たるほう」とは何か?その対義語は「日の出るほうへ向かって、南のほう」である。答えは「左」。対義語はもちろん「右」である。

 辞書は、それを利用すると思われる人々の層を仮定して意味を記述するので、辞書ごとに記述の方法も難易度も異なる。しかし、「左」と「右」、「上」と「下」のような語は誰でも使う基本的な語であるだけに、正確な意味記述をめざそうとするとかえって難しい。しかも、これらの語は、発言する人の位置によって指し示すものが変化する相対的な語である。以下に「左」について4種類の辞書の語釈を示してみよう。

辞書(1) 多くの人が茶わんを持ち、くぎ・のみを持つ方(の手)。
辞書(2) 人のからだで、心臓のあるがわ。また、野球でいえば、キャッチャーからみて、三塁がわに当たる方角。
辞書(3) アナログ時計の文字盤に向かった時に、七時から十一時までの表示の有る側。
辞書(4) 相対的な位置の一つ。東を向いた時、北の方。また、この辞書を開いて読む時、奇数ページのある側などをいう。

 どれも、工夫を凝らした語釈である。ただ、難点が皆無というわけではない。辞書(1)の書き方だと、「多くの人」というのがあいまいだ。それに食事の時とそれ以外の時とでは利き腕が違うという人もいるだろう。辞書(2)だと野球を知らない人には通じない。辞書(3)ではどの位置から時計を見るかで方向が変わってしまう。その点、辞書(4)は、まず「相対的な位置」であることを押さえている。さらに「この辞書を開いて読む時」というのは、現にこの項目を読んでいる人に向けての記述なのだから、なかなかうまい説明の仕方だと思うのだが、いかがだろうか。

 実は、辞書(4)は私が第五版から関わっている『岩波国語辞典』で、「左」と「右」の語釈は第二版から現行の第六版に至るまで全く変わっていない。さまざまな辞書の意味記述のうち、あなたにはどれが一番分りやすいだろうか。そして、あなたなら「左と右」をどう説明するだろうか。

2007年9月20日