


昔の暦では4月~6月が夏で、7月~9月が秋でした。今年の立秋は8月8日でしたから、今日はもう「秋」というわけです。といっても今日の景色は完全に「夏」本番ですが。
「涼しいのは秋」、これが平安時代初期(900年ころ)の『古今和歌集』の常識です。そこでこんな歌も生まれます。「六月の晦日(つごもり)によめる」という詞書のついた一首。
夏と秋と行きかふ空の通ひ路はかたへ涼しき風や吹くらむ
晦日は月の最後の日ですから今日で夏は終わり。そこで、今頃空の上では夏と秋とが交替しているにちがいない、その季節がすれ違う空の通り道では片側だけ、つまり秋の側だけ涼しい風が吹いていることだろうと想像した歌です。『古今集』の夏の歌に出てくる「涼し」はこの一例だけで他にはありません。「涼し」=「秋」という感覚は奈良時代の『万葉集』も同様でした。
ところが鎌倉時代初期(1200年ころ)の『新古今和歌集』となると、夏の歌にも「涼し」という語が見られるようになります。
おのづから涼しくもあるか夏衣ひもゆふぐれの雨のなごりに
これは藤原清輔という人の作です。「夏衣ひもゆふぐれの」のあたりは「夏衣-紐結ふ・日も夕-暮れに」という掛詞の技巧が用いられていますので、少し意味が取りにくいかもしれませんが、要は夕暮れの雨のなごりで、おのずと涼しく感じられるというのです。また「涼む」という語も『新古今集』には見えます。
わが宿の外面(そとも)に立てる楢(なら)の葉の茂みに涼む夏は来にけり
このように『新古今集』になると、夏の中に「涼しさ」を見出そうとする視点がはっきりと見えるようになっています。ひとつの語に着目して調べてみるだけでも、それまで気づかなかったことがわかって興味深いものです。
さて、現代の私たちも、暑さに不平を言うばかりでなく、夏の中に「涼しさ」を探して楽しむ心の余裕を持ちたいですね。

世界でもっとも美しいといわれる日本の自然は、四季折々の変化に富み、私たち日本人の独特の感性を育んできました。絶えることなく強く流れる海流と偏西風…。それは国土に豊かな自然環境をもたらすとともに、自然そのものを人々にとって圧倒的かつ絶対的な存在ととらえ、やがて山河や海を信仰の対象と考えるようになりました。こうした日本的な風土こそ、日本人の生活スタイルや性格を考察する上で大切な背景となるのです。
風土という視点から和食の文化を眺めると、私たち日本人は他に類を見ないほど季節の食材を多彩に利用し、旬の食材の味を大胆に表現してきたといえます。その代表例が精進料理です。もともと精進料理は、インドから中国を起源とする仏教食ですが、肉類・魚介類をいっさい用いず、穀物・野菜・豆腐など植物性の材料だけで作る料理のため、旬の野菜を好む日本人にふさわしい料理として独自に発展してきました。
道元禅師(どうげんぜんじ、1200~1253)の『典座教訓(てんぞきょうくん)』によれば、精進料理は「三徳・六味(さんとく・ろくみ)」が備わるように調理することが大切であると教えています。「三徳」とは、食事の出来上がり具合のことで、食品と調理品に関する基本的な三原則です。
1.軽 軟(きょうなん)=あっさりとしていて柔らかである。
2.淨 潔(じょうけつ)=清潔で衛生的である。
3.如作法(にょさほう)=道理と規則にしたがった調理がなされている。
また「六味」とは、「苦」・「酸」・「甘」・「辛」・「鹹(かん)」・「淡」のことで、「苦い・酸い・甘い・辛い・しおからい・淡い」の六種の味の基本です。ここで「淡い」とはどのような味なのかが問題になりますが、おそらくは食材そのものの味を引き出すことを指すと思われます。もともと中国の五行説に基づく「五味」は、五臓と五感の機能を高める働きがあるといわれてきましたが、精進料理ではこれに淡味を加えて、道元禅師は「六味」こそが調和した食事としてもっとも体によいという考え方を教えています。旬を楽しむ料理には、心と体のバランスを保つ絶妙な“隠し味”があるのです。

日本列島には、縄文時代よりも前から人が住んでいました。日本人のルーツを追い求めていくためには、その人達が、どこから来たのかを探る必要があります。古い時代の出来事ですから、物的資料はあまり残っていません。そのようななかで、有力な証拠となるのは石器(石の道具)です。石は土の中で腐ることがありません。したがって、大昔の人達の生活を知るうえで、格好の材料になっているのです。
さて、列島に人が入って来たルートには、二つが考えられます。ひとつは、大陸と陸続きであった樺太・北海道経由の道、もうひとつは、南西諸島経由の道です。

北回りのルートでやって来た人々は、もともと南シベリアに住んでいました。極寒の土地で、マンモスやトナカイなどの大型獣を狩りして生活していたといわれています。ところがあるとき、気候が寒冷化し、動物が移動を始めました。それに伴い、動物を追って人々も南下し、日本列島に入って来たのです。証拠となるのは、シベリアで狩りなどに使った石の道具です。石刃(せきじん)といって小型長方形のとても繊細なつくりをしています。実は、似たような道具が、日本列島でも出土しているのです。考古学では、類似したものが離れた土地で発見されると、通常、それらの間には関係性があると見なします。この石器は、北回りのルートを証明する大切な証拠となっています。
もうひとつの南回りのルートに関しては、北回りと比べ、模糊としたところが多いのが現状です。沖縄に代表される南西諸島の遺跡から、河原でごろごろしている小型の丸石を打ち欠いた簡単な石製の道具が出土しています。このような、握り拳ほどの簡素な万能石器は、当時、島嶼部を含めて陸地化していた、東南アジアの植物採集型の旧石器文化のものと共通します。島々を北上しながら、人がやって来たことは十分に想像ができるでしょう。
日本人が形成されるにあたっては、いくつかの節目を経過しました。今回は、そのおおもととなる部分を紹介しました。日本の歴史の底の部分が見えてきたのではないでしょうか。