


12月22日は冬至です。冬至は、一年で夜がもっとも長く、昼がもっとも短い日です。古くは冬至の日を境に日脚が延びていくため、太陽が再生する日と考えられていて、冬至を境に運気が上昇すると信じられていました。
冬至には、かぼちゃの煮物を食べる習慣があります。江戸時代の中頃には、この日にかぼちゃを食べると風邪の予防になるという習慣が庶民の間に広まっていました。
なぜ、かぼちゃを食べるようになったのでしょうか。
この日には「ん」のつくものを食べると幸運になれると信じられていたからです。かぼちゃは、漢字で「南瓜」と書き、「なんきん」とも呼ばれていました。つまり、かぼちゃは「ん」のつく縁起のよい野菜であり、冬至にもってこいの野菜だったのです。「ん」の2つ付く「なんきん、にんじん、れんこん、きんかん、ぎんなん、かんてん、うんどん(うどん)」の7つを食べると病気にならないともいわれていました。
スーパーなどで1年中、野菜を手に入れることができる現代と違い、江戸時代には冬になると野菜が少なくなり、ビタミンが不足しがちでした。かぼちゃは夏に収穫される野菜でしたが、長期保存に適していたので、冬至にかぼちゃを食べることは、不足したビタミンを補うための先人たちの生活の智恵でもありました。
近年かぼちゃといえば、10月のハローウインを身近に感じると思いますが、今年は「冬至にかぼちゃ」はいかがですか。
(皆川 義孝)
2010年12月20日
男の子であれば三歳と五歳、女の子であれば三歳と七歳のとき、晴れ着姿に千歳あめを持って、お宮参りをした思い出があるのではないでしょうか。このお宮参りを七五三といいます。
七五三は、もともと3つの子供の成長を祝う行事でした。3歳になった男女がはじめて髪を結う「髪置き」、五歳の男児がはじめて袴をつけ、男子としての第一歩を踏み出す「袴着」、そして七歳の女の子が、子どもの着物から大人の着物に着替える「帯解き」です。
江戸時代になると、この子どものお祝いに目をつけたのが呉服屋でした。それは、新調の着物、晴れ着が主役になるようなお祝いだったためです。呉服屋が「七五三」という言葉をつくり宣伝したところ、まずは商家や武家を中心に広まり、江戸時代の末には庶民にまで広まっていきました。

また、徳川幕府五代将軍の徳川綱吉が、嫡男徳松の着袴の祝いを11月15日に行なってから、七五三はこの日に行なわれるようになりました。
そして、明治以降も11月15日が七五三の日となっていました。これは、古い暦では11月15日はすべてにおいて大吉の日で、お祝い事にはこれ以上ない日でもあったからでした。
現在では、七五三は10月から11月にかけて行われています。
子どもの健やかな成長を願う七五三は、江戸時代の呉服屋が発案したお祝いだったのです。
(皆川 義孝)
2010年11月12日

江戸時代中頃の1770年代、江戸近郊、多摩郡和泉村(現東京都狛江市)の泉龍寺では、本堂正面、本尊釈迦如来像の手前に、地蔵菩薩の小さな木像が安置されました。左腕に赤ちゃんを抱いている坐像で、厨子(ずし)にはいっています。
この地蔵尊は一風変わっていて、「回り地蔵」と呼ばれました。毎月25日に寺から運びだされ、「講中(こうじゅう、信仰仲間)」のお宅を一晩ずつ泊まり歩くのです。地蔵尊を迎えた家では、子供を授かりますように、また子供が丈夫に育ちますように、と願(がん)をかけ、近所の人を集め、子供等にお菓子を配ったり、賽銭を集めたりして、ささやかなおまつりをし、次の日は、次のお宅に向かいます。こうして約一か月、翌月23日になると、地蔵尊は、講中の人たちに付き添われて、寺に戻ってきます。
この講中は、なぜか寺のすぐ膝元にありません。近いところで多摩川対岸の中野島(神奈川県)、江戸の市中では四谷・神田・日本橋など、また十条・赤羽とか、立川・砂川・狭山(埼玉県)など、いずれも一日で歩ける限度内で、広く分布していました。
23日の夜は、泉龍寺に大勢泊まりこみ、境内には露天商が出、寺周辺の村人たちも集まってきて、24日の縁日までにぎわいました。
子供が授かり、丈夫に育つことは、宗派とか、身分とかにかかわらない願いだったので、泉龍寺は曹洞宗ですが、この講中にはいろいろな宗派の人が参加し、武家・商人・農家と身分もさまざまでした。明治・大正・昭和となっても盛んに続けられています。
このお地蔵さまの信仰は、今風にいえば、一種の子育て支援でした。経験豊かな人たちが、気楽に、たっぷり時間をかけて助言してくれ、片道一日の遠足は大きな気分転換でもあり、元気な露天商の掛け声も楽しかったことでしょう。そして講中の人たちの協力的な雰囲気に身を任せると、地蔵菩薩の大きな慈悲の心に包み込まれるような安心感を味わえたのではないでしょうか。娯楽・商談・縁談・就職など多様な機能を組み合わせ、いわばハイブリッドで、味わいの深い信仰文化があったのです。
この地蔵尊のように尊像を移動していく信仰を、研究者は「巡行仏」と呼びます。「巡行仏」は江戸中期から各地で盛んとなり、今も続いている事例があります。
しかし泉龍寺の地蔵尊の巡行は、第二次世界大戦の空襲(1944年)の中で中止となり、戦後も復活しませんでした。その要因のひとつは、映画やテレビをはじめ、娯楽のチャンスが爆発的に増えたことにあるようです。
(菅原 昭英)
2010年10月18日

大地の実りを実感するこの季節、太鼓の音は 自然の恵みに感謝する“喜びのリズム”となって 街中に広がります。
「村祭(むらまつり)」
村の鎮守の神様の 今日はめでたいお祭日
ドンドンヒャララ ドンヒャララ♪♪
ドンドンヒャララ ドンヒャララ♪♪
朝から聞こえる笛太鼓…
私たち日本人にとって、太鼓はとてもなじみ深い楽器ですが、その起源は意外に古いようです。例えば世界最古の合奏といわれる雅楽に太鼓は欠かせません。5世紀ごろから大陸の楽人(がくじん)が渡来するようになると、やがて大宝律令(701年)を契機に雅楽は「雅楽寮(うたまいのつかさ)」として宮中に設置されました。雅楽において太鼓は、他の打楽器や管楽器、弦楽器を後方にして最前列中央へ配置される、いわば合奏の要です。

あるいは後世になると、戦場においては戦況を伝える通信手段として、また戦意を鼓舞する鳴らし物として重要な役割を果たします。また能楽や歌舞伎などの伝統芸能においても、太鼓は音響的、美術的に工夫が施されて現在に至っています。このほか仏教寺院、とりわけ禅寺では、坐禅中に時刻を告げたり、お茶をいただく作法や掃除の開始を告げる合図として、太鼓は重要なメッセージとなって修行僧たちを励ましています。
赤ちゃんをあやす“でんでん太鼓”のように、時に心を和ませ、時に気分を高揚させる不思議なパワーを持つ楽器、太鼓。まさに胸の鼓動を表現した「魂の声」といえるでしょう。
(千葉 公慈)
2010年9月6日

現在、NHKの朝の連続テレビ小説で「ゲゲゲの女房」が放送されていますが、この原作者は漫画家水木しげる夫人です。水木作品と言えば「ゲゲゲの鬼太郎」をはじめとする妖怪ものですが、ドラマの舞台となっている深大寺、調布駅界隈は今鬼太郎ブームに沸いています。
さて、妖怪とは一体、どのような存在なのでしょうか。すぐに連想されるのは天狗、河童、鬼、海坊主、山姥、雪女等でしょうか。また「化け物」、「もののけ」等様々な呼び名で呼ばれています。しかし、それを定義するとなると、はなはだ困難です。明らかに幽霊とは区別出来ますが・・・。
民俗学の分野でも、様々な研究者が、妖怪の定義をしようとしてきました。柳田国男氏は、「神霊の零落」した姿だと言っています。たとえば、河童は水神の零落、山姥は山の神の零落といった具合です。また小松和彦氏は、「妖怪とは日本人の神観念の否定的な部分」だとみなしています。祟ったり、悪さをしたりするのが妖怪ということになるようです。しかし、これらの定義にもあてはまらない事例が多々あります。鬼太郎は人間の味方ですし、座敷わらしは、家を栄えさせる守り神です。

難しい定義はさておき、妖怪を考察することは、日本文化を読み解く鍵でもあります。なぜなら目に見えない、説明がつかない人間の畏怖の対象が、妖怪という存在に形を変えて具現化したものだからです。だから妖怪を知ることは我々自身を知ることに繋がるのです。
(佐々木 俊道)
2010年8月5日

田山花袋の『田舎教師』という小説の中には、お盆のお供えものについて、次のような記述があります。
仏壇には灯がついてゐて、蓮の葉の上に供えた団子だの、茄子や白瓜でつくった牛馬だの、真鍮(しんちゅう)の花立てに挿したみそ萩などが額縁に入れた絵のように見える。
お盆の間はここに描かれているように、精霊棚に「精霊馬(しょうりょううま)」と言われる夏野菜の茄子や白瓜、胡瓜で作った牛や馬をお供えします。これは精霊馬に乗ったご先祖さまの祖霊を家にお迎えし、お盆が終わると精霊馬に乗ってあの世にお帰りいただくという言い伝えによるものです。
また、この小説にも描かれていますが、この馬や牛の「尻尾(しっぽ)には畠から取って来た玉蜀黍(とうもろこし)の赤い毛」を使います。
さて、お盆になると、それでは、精霊棚に足の速い馬や、歩みの遅い牛を飾ることには、どのような願いが込められているのでしょうか。さまざまな説がありますが、ご先祖さまがあの世から来る時は、胡瓜の馬に乗って少しでも早く家に来ていただき、お盆がおわりあの世に帰るときは、茄子の牛に乗ってゆっくりとお帰りいただきたいとの願いが込められていると言われています。お盆のお供えものの精霊馬にもご先祖さまを大切に思う日本人の心が表れているのです。
『田舎教師』の引用は新潮文庫本による。
(皆川 義孝)
2010年7月20日

「達磨図」(学生Nさんの作品)
子どもの頃、「にらめっこ」や「だるまさんがころんだ」といった遊びは、誰にも楽しんだ思い出があるでしょう。起き上がり小法師(おきあがりこぼし)や縁起物の赤い置物としても古くから親しまれてきた“だるまさん”。 実は歴史上、とても謎めいた不思議な人物として伝えられるのです。
まずは「だるま(達磨)」という名前ですが、これはインドの梵語「dharma(ダルマ)」からきています。語源的にはこの世界の「存在を支えて保っているもの」という意味で、広く「法」とも訳されます。
人物としての達磨は、本名を「菩提達磨(ぼだいだるま)」といい、「達磨大師(だるまだいし)」と尊称されます。南インドの香至国(こうしこく)の王子として生まれ、やがてお釈迦さまから数えて二十八代目の教えを継承した達磨大師は、6世紀の初頭に禅を中国に伝え、後に禅宗の開祖と仰がれるようになりました。
達磨大師と後に弟子となる慧可(487〜593)には、次のような問答があります。
慧可 「私の心は不安でいっぱいです。どうか私の苦しい心を安らかにしてください!」
達磨 「よし、わかった。それでは不安でたまらないという心をここに持ってきなさい。
私が安らかにしてあげよう。」
慧可 「一生懸命に私の心を探しましたが、どうしても見つかりません…。」
達磨 「もう私は君のために安心を与えたのだよ。」 (『祖堂集』菩提達磨章より)

達磨図を書く学生たち
人は誰でも不安でしかたがないときがあります。でもそんな不安の正体は、実は最初からどこにもなかったのかも知れませんね。もともと形のない心に、いつの間にか不安という理屈の形をつくり上げてしまうところに、実は本当の恐ろしさがあるのだと達磨大師は教えているのです。
(千葉 公慈)
2010年6月8日

ひらいた ひらいた なんの花が ひらいた
レンゲの花が ひらいた ひらいたと思ったら
いつのまにか つぼんだ
(童謡・ひらいた ひらいた)
誰でも口ずさんだことのあるこの歌に出てくる「レンゲの花」は、春の野に咲くレンゲソウではありません。レンゲとは漢字で「蓮華」と書き、釈尊誕生に深いかかわりのある花なのです。
釈尊は、今から2500年前にインドの北西部にあるルンビニー園で誕生しました。この時、仏伝資料によると、釈尊は母親のマーヤー夫人の右脇腹から誕生し、すぐに7歩ほどあゆまれたとされます。そして7歩あゆんだ時、釈尊の足元に咲いた花がハスの花だったといわれています。
日本では4月8日は釈尊の誕生日とされ、花を飾った花御堂に、生まれたばかりの釈尊の像(誕生仏)をお祝いして「花まつり」を行います。誕生仏は浴仏盆(よくぶつぼん)というハスの花をデザインした水盤の上に安置します。これも釈尊誕生のときの逸話によるものです。
日本ではハスの花は、泥の中から生えて、その汚れに染まらない美しい花を咲かせることから、清浄の意味にたとえられました。そして、仏花の中でも重要な花となり、「妙法蓮華経」などのお経の名称や、仏像をのせる台座のデザインとしても使われるようになりました。
(皆川 義孝)
2010年4月26日

この冬は暖冬のようですが、二月に入って都内でも積雪がありました。交通機関に影響が出たり、転んで怪我をする人もいて、よろこんでばかりはいられませんが、雪が降ると何となく心楽しいものです。登校中の小学生が空き地の雪の原に寄り道して、嬉しそうに何度も振り向いて足跡を確かめている姿を目にしました。
大殿の この廻(もとほ)りの 雪な踏みそね しばしばも 降らぬ雪ぞ 山のみに 降りし雪ぞ ゆめ寄るな 人や な踏みそね 雪は(『万葉集』巻19・4227番歌)
この歌は、天平時代の高官、藤原房前(ふささき)が周囲の人に語った言葉を三方沙弥(みかたのさみ)という人が長歌に仕立てたもの。そういえば音数も5・7のリズムからは外れています。現代語に直して見ると次のような具合です。
御殿の、この周りの雪は踏んではなりませんぞ。しばしば降る雪ではないのだ。いつもは山だけに降っていた雪だ。ゆめゆめ近寄るでないぞ。そこの人、踏んではなりません、この雪は。
まだ、だれの足跡も付いていない真っ白な雪を前に喜んでいる藤原房前の笑顔が浮かぶようです。「大殿」は一般的には天皇の宮殿を指す言葉ですから、時の聖武天皇に美しいままの雪景色を御覧にいれようという気持ちから、「踏んではなりませんぞ」と人々に呼びかけたのかもしれません。
さて、美しい雪景色をそのまま眺めて愉しむか、それともつい踏んでみたくなるか、あなたはどちらでしょう。
(三田 誠司)
2010年2月12日

皆さんは「針供養」をご存知でしょうか?
「針供養」とはその名の通り、針をいたわり供養する日本の伝統行事で、2月8日(もしくは12月8日)に行われます。その日は古い糸や錆びた針、折れた針を豆腐やこんにゃくに刺して祭壇に奉納するとともに、裁縫の上達を祈ります。供養とはインドのサンスクリット語「プージャナー」から来た言葉で、「尊敬する」「崇拝する」という意味です。
日本には民間行事として、いろいろな供養日があります。長い間親しんで古くなった人形を奉納する「人形供養」、農耕のために殺生した虫の命をなぐさめる「虫供養」、その他に「魚供養」「包丁供養」「時計供養」「はさみ供養」「うなぎ供養」「筆供養」「めがね供養」など実にさまざまです。日本人はこのように人間以外の生物はもちろん、あたかも生活の道具にまで命が宿っているかのように、衣食住のすべてを大切に扱ってきました。大切に使ってきた、いや使わせてもらったモノだからこそ、それが働かなくなったとき、ありがとうのひと言を添えて供養する、その代表的行事が「針供養」なのです。
母の名の残る尺差し針供養 ── 金原登志子
昨今、量販店に出かければとても安く、しかも素敵な服が簡単に手に入る時代です。もはや家庭で針仕事をするお母さんも見かけなくなりました。ましてや親子何代にもわたって使い続けてきた道具や身のまわりの物も減り、両親や祖父母の姿を思い起こす機会も失っていることでしょう。でもどんな時代になっても、役に立たなくなった道具を簡単に捨て去るように、人はこころまで捨ててしまってはいけません。きっと針一本をいとおしむことができれば、人を思いやり、人を愛することもできるはず…。「針供養」はそんなメッセージを今に伝える行事なのです。
(千葉 公慈)
2010年1月25日