杉本苑子さんと駒沢学園
2017/07/28
熱海市名誉市民である杉本苑子さんの市葬が7月19日起雲閣で行われました。
杉本苑子さんのご冥福をお祈り申し上げます。
さて、杉本苑子さんは、昭和14年駒沢高等女学校(現駒沢学園女子中学・高等学校)2年次に編入し、昭和18年3月に卒業されました。駒沢高等女学校へ入学される経緯については、創立70周年の記念式典の際に『来し方 ゆく末』という講演の中で詳しくお話しされています(無憂華第35号)。また、直木賞を受賞されたとき、本学園の教職員3名がお宅にお祝いに参上した際のお話からも窺い知ることができます。
講演でのお話によれば、尋常小学校を卒業後、師範学校入学に有利ということで高等小学校に入学されました。しかし、ご自身が学校の先生になるという気持ちもなかったので、普通の高等女学校への進学を望まれました。杉本さんのご両親が仏教に深い造詣をお持ちの方だったので、「禅宗の駒沢高等女学校はどうかしら」ということで2年次に編入されたとのことでした。
このことは、お祝いに参上した教員が通して頂いた応接室に仏教の専門書が多く積み上げられており、「父の本です」と杉本さんがおっしゃり、その時、参上した仏教の教員がお父様の仏教に対するご造詣の深さ、その影響を杉本さんがお受けになっていらっしゃったという印象を受けたと語っておりましたことからも窺えます。
また、編入試験に際しての創設者山上先生の言動、また入学後の山上先生のお話の内容もよく記憶されており、山上先生を尊敬されていたことも窺えます。ご本人が在学当時は、山上曹源先生の御長女と特に親しくお付き合いをされていたとのことです。
当時の国策で、敵性語廃止ということで、英語の代わりに短歌を教えるということになりました。担当教員から「歌とは何か、心の奥底からやむにやまれず噴出した真実、それを三十一文字にまとめる」ことだという教えを受け、学園の教育誌「無憂華」第9号に、他の生徒は1、2首のところ杉本さんは、下部の紹介画像にあるように14首の短歌を投稿されていることからもその影響力の大きさを計り知ることができます。また、この「先生に私は、歌を通して、文学とはどういうものか、ということを開眼させられたといってもいいかもしれません」と述べられています。ここにその後の文学活動の原点の一端が窺えると思われます。
70周年記念式典の講演に来校された際、当時の同級生の方々も来校され「あら、苑ちゃん、お久しぶり、お元気だった」などとお互いに半世紀の時の流れを感じさせない会話が弾んでいたことを覚えています。駒沢高等女学校ということで結ばれたご縁をまさに感じられる一コマでした。