「真田幸村」という文化 -日本文化学科での歴史の学びを考える-

NHK大河ドラマ『真田丸』が好評のようである。主人公の真田幸村といえば、慶長19年(1614)に始まった豊臣方と徳川方の最終決戦である大坂の陣において、大坂城の弱点である東南部に出丸の構築を発案し、この真田丸での戦いで豊臣方の軍師として徳川軍に大打撃を与えた場面が特に有名であろう。また、忍者集団を従え、抜け穴や影武者などを駆使して、徳川家康をあと一歩まで追いつめながら、ついに最期を迎える悲劇のヒーローといったイメージを思い浮かべる方も多いのではなかろうか。

ただし、実際の幸村は軍師という立場ではなく、忍者・影武者の活躍や抜け穴なども、ほとんどは後世の脚色である。また、真田丸についても、大坂城の弱点補強の防御施設ではなく、独立した攻めの出城であった可能性や、城外の各所に出丸を築く構想は、豊臣方がもとから計画しており、幸村の独創ではないことなどが、歴史地理学的な手法や複数の史料の比較検討によって、近年明らかにされつつある。このように歴史学では、より客観的に信頼できる史料の丹念な読解や科学的な分析方法に基づいて、過去の人物や出来事の実像に迫っていく研究姿勢こそが、何よりも重要視される。
そもそも幸村の生きた時代に、彼が「真田幸村」と名乗ったことを証明する史料はまったく存在せず、本当の呼び名は真田信繁である。徳川幕府を称揚する立場で叙述された『難波戦記』という軍記文学(17世紀中頃成立)において、彼は初めて幸村と称されるようになる。以来「真田幸村」という人物像が、実在の信繁とはかけ離れた形で創造されていく。したがって、多くの歴史学者は信繁という呼称を使用することに固執する。ここにも歴史学という学問の性格が、端的に表れていよう。
さて、大坂の陣における真田信繁が、並々ならぬ活躍で世間の大注目を浴びたことは、同時代に書かれた信憑性の高い史料によっても疑いない。信繁が「真田幸村」という英雄へとさらなる変貌を遂げていくのは、豊臣贔屓の筆致で書かれた『厭蝕太平楽記』が成立する18世紀中頃以降のことである。『厭蝕太平楽記』の幸村は豊臣方の総軍師であり、最後は豊臣秀頼とともに薩摩に落ち延びる。幕末成立の『本朝盛衰記』では、忍びの者たちが幸村の影武者となって敵を翻弄し、ついには家康を討ち果たしてしまう。また、『真田三代記』の明治版には、幸村が抜け穴を掘って敵陣に焼き討ちをかける場面が描かれる。
こうした江戸後期から明治期にかけての軍記文学は講談の種本となり、講釈師による脚色が加えられながら広まっていった。明治末期から大正期になると、講談を筆記して小説化した立川文庫が、少年たちの間で爆発的な人気となり、『真田幸村』『猿飛佐助』といった作品がつぎつぎと刊行され、幸村に仕えて忍術を操る真田十勇士が誕生する。昭和49年から連載が始まった池波正太郎の小説『真田太平記』でも、十勇士こそ登場しないが、忍びの者(草の者)たちが重要な役割を演じており、幸村を語る上で忍者は不可欠な存在として定着した。以上のように、真田信繁の実像をはるかに超えた文化的な創造物として、「真田幸村」は長い歳月をかけて形づくられてきたのである。

ところで、大阪には現在も、大坂の陣にゆかりの深いさまざまな史跡が点在している。こうした場所に建つ顕彰碑などは、大坂の陣戦没者の150回忌・200回忌の前後(18世紀中頃から19世紀初め)や、立川文庫による幸村ブームが巻き起こった大正から昭和初期、大坂築城400年の昭和58年前後に集中して設置されている。たとえば、大坂城に通じていたとの由緒を持つ三光神社の「真田の抜け穴」の場合、実際は徳川方による攻撃用の塹壕ではないかとの解釈がなされるなど、その史跡にまつわる史実の追究はしばしば試みられる。けれども、こうした伝承がいつ誕生し、幸村ゆかりの史跡であるとの認識がどのように定着していったのかについては、あまり議論されることはない。こうした歴史的な名所が形成され、人々の文化的な関心を集めていく経緯や背景を解明することにこそ、むしろ興味が湧いてくる。

  • 三光神社の「真田の抜け穴」
    三光神社の「真田の抜け穴」

また、現代の「歴女」ブームという社会現象は、『戦国無双』『戦国BASARA』といったゲーム類で、幸村などの武将がイケメンなキャラクターにデザインされ、さらにコミック・アニメ・映画・舞台化といったメディアミックス戦略が展開される中で、登場してきたようである。ここで近世の軍記文学を振り返ってみると、豊臣方の武将である木村重成は無双の美男子とされ、その女装姿やモテ男ぶりを描いた作品まで存在する。文学から講談、さらには歌舞伎・浄瑠璃の演目や錦絵の題材へと媒体が展開する中で、当時の民衆たちも幸村への熱狂を激化させていったのである。
歴史の研究者としての立場からは、エンターテインメントとして脚色された幸村を、史実であるかのように捉えてしまう昨今の傾向には、困惑を隠しきれない。ただし、ゲームなども歴史の勉強にはなるとの錯覚を抱く一部の「歴女」と、立川文庫から歴史的な教養を身に付けたと思っている年配の方々との間に、質的な差がどの程度存在するのかと疑問に思うことはある。もしかすると、各時代の人々が「真田幸村」に何を求め、彼のイメージをどのように変容させてきたのかについて、その歴史的変遷を追究することで、歴史を題材とした娯楽が教養に変化するメカニズムの一端を、文化論的に解明する道が開けるかもしれない。
史学科のように歴史学を専門に扱う場合には、良質な史料を読解し、真田信繁の実像に迫るような学問的アプローチに、高い研究的価値が認められるであろう。けれども、後世に創出されていく「真田幸村」をあえて取り上げ、その歴史的変容の有り様を文化的に論ずるような研究姿勢こそ、日本文化学科で歴史を学ぶ上では重要な意味を持つのではなかろうか。最近の『真田丸』ブームを前にして、こうした思いがよぎり始めている。

(日本文化学科 下川 雅弘)

教員の声 :新着投稿