仏教からきた日常の日本語 《ご機嫌いかが?》 ─ お坊さんの戒めだった「機嫌」 ─

日本文化学科 千葉 公慈

日頃から「機嫌をうかがう」「機嫌をとる」「ご機嫌ななめ」など、「機嫌」という言葉は、実に多彩な使われ方をする日常の仏教語です。一般的に人の気分の善し悪しを表現するときに使いますが、本来はどのような意味だったのでしょうか。
「機嫌」は古くは「譏嫌」と書く戒律の名前でした。正しくは「息世譏嫌戒(そくせきげんかい)」といって、世間からお坊さんが機嫌悪く思われることを息(や)めさせる戒めだったのです。譏は「そしる」、嫌は「きらう」という意味ですから、「譏嫌」とは、人々から“そしりきらわれること”です。

お釈迦さまの時代、お坊さんは修行に専念する必要がありましたから、労働は一切禁止、つまり生活面はすべてお布施に頼らなければなりませんでした。それゆえお釈迦さまは、常にお坊さんが世間から尊敬されるべき存在であることに、人一倍気を遣ったのです。贅沢をしたり、誤解を招いたりする行動はもちろんのこと、悪事をはたらくなどはもってのほかです。祈りを捧げる相手に敬意をはらってもらえるような、立派な人間でなければ修行は続けられなかったのです。

面白いことに例えば「酒を飲まないこと」や、ニラ・ニンニクなどの「五辛を食べないこと」も「譏嫌」の戒めに入ります。それ自体は悪い行為ではないのですが、結果として酔ってだらしなくなったり、あるいは臭気で坐禅の妨げとなったりするような間接的な悪行も未然に防いだのです。ようするに不愉快な思われ方をしないための慎み、それが「譏嫌」の戒めだったのです。やがて「譏嫌」は他人の内心や思惑などを指すようになり、さらに「起居」「安否」「様子」と意味が徐々に拡大して、今の「機嫌」となりました。
「ご機嫌は最高のアクセサリー」ともいわれます。上機嫌でいることが素敵なコミュニケーションの潤滑油になれれば良いですね。
それでは次回まで“ご機嫌よう!”

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