女子大は楽しい/大貫 恵佳(社会学)

先日、ある学生が「先生、女子校(出身)ですよね?」といってきた。学生自身も女子校出身で、いわく、「先生は、ものすごく女子校っぽい」とのこと。「どうして?」と聞くと、「自由な感じがするから」という答えが返ってきた。なんてことはないお遊びのような、よくある「女子校あるある」に過ぎないのだが、このやりとりはしばらく私の心に残った。「女子校っぽい」「自由な感じ」とは何なのだろう?

たしかに、私は女子校出身者である。小学校は、ほぼ女子ばかりだった。男女比率が1:3に決められており、そこで私は多数派の女子として育った。その後、系列の女子中学校・女子高等学校へと進んだ。大学こそ系列の女子大には進学せず、共学を選んだが、私は多感な時期を12年間も、ほとんど女子ばかりの特殊な環境で過ごしたのだ。大人になった現在、自分の「核」のようなものを作ったのは、あの女子だらけの空間だったとはっきり自覚している。だから、冒頭の学生との会話の際にも、「やっぱりそう見えるよね!」と深く納得したのだった。

駒沢女子大学は「女子大学」である。学生たちには共学高校の出身者も多いが、こぞって「女子大は楽しい」という。もちろん、すべての学生が同意見であるはずはないが、少なくとも私が接する限り、もともとは女子大に対して不安を抱いていた学生でさえも、「入学してみたら、女子大はすごく楽しい!」と声をそろえていうのである。そんな学生たちの姿に、私は自分の女子校時代を重ねずにはいられない。私は、大学は女子大ではなかったし、彼女たちとは世代も違う。しかし、若い時期を女子ばかりで過ごすことの不思議な楽しさには心から共感してしまうのだ。

学校は男女別学であるべきだ、などと思っているわけではない。ジェンダーによる入学制限がもたらすマイナス面は見過ごされてはならない。とりわけ、それによって不利益をこうむるマイノリティへの配慮は慎重になされるべきだ。そもそも、私は、社会には多様性が不可欠だと考えている。そうした観点からすれば、女子大は多様性とは相反する、人工的に作られた不自然に均質な空間のようにも思われる。大学を卒業すれば、男性がいる世界で生きていかざるをえないのだ。女子大では「現実」が教えられないのではないかと疑う向きもあるだろう。

しかし、その現実の方はといえば、残念ながらそれほど多様性に開かれていないのが現状である。現実社会は偏っている。大学も社会の一部である以上、現実から完全に遊離することはできない。だが、学校が現実をそのままなぞって、現実のミニチュアになる必要はない。学生生活を謳歌する学生たちを見ていると、学校は現実のコピーであってはならないと確信する。学校は、いくばくかのフィクションを含んでいたほうがよい。そのフィクションが、現実に向き合うための「態度」を養うのだ。当然だが、女子大には女子学生しかいない。だから大学のなかでは、男女の役割意識なんてものは役に立たない。連帯するときも敵対するときも、男子抜きなのだ。そうやって培ったそれぞれの力で、彼女たちは現実社会と関わっていくのだろう。

私の女子校時代を振り返ると、とにかく厳しいところだった。持ち物、身だしなみ、礼儀、言葉遣いなど、細かいところまで指導された。明言こそされなかったものの、明治期の「良妻賢母」思想の現代版みたいなものが教育方針のここかしこに見え隠れしてもいた。要するに、具体的な「自由」はあまりなかったのだ。しかし、そこでの経験は、逆説的にも、その後の社会をある程度「自由」に生き抜くための根本的な「構え」を教えてくれたと思っている。現実社会に完全に合致できなくてもいい。むしろ、社会と距離を置けることのなかに楽しさはある。女子校時代の楽しかった記憶は、その距離感を肯定する力を与えてくれているように思うのだ。現実を生きるために必要なのは、社会との折り合いの悪さを楽しめる強さなのかもしれない。女子学生ばかりの職場で、私は時おり、皆がそういう強さを備えた社会を想像してみる。そして、とても愉快な気分になるのである。

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