なぜお化粧は洗顔に始まり洗顔に終わるのか―化粧行動の科学-/石田 かおり(哲学的化粧論)

今回は、先月掲載の亘先生のエッセーを受けて、日常生活の中で「そういえば、なぜだろう」と思ったことをどのように学問と結びつけるか、その一例をお見せしたいと思います。

朝起きたら洗顔をする行動は、日本ではごく一般的です。幼い頃にそうするよう躾けられ、気付いたら習慣になっていて、朝洗顔しないと目が覚めないという人も少なくないことでしょう。日本人が国民的な規模で起床時に洗顔するようになったのは、明治政府の「富国強兵」政策に基づく「衛生政策」によるものです。しかし、その前から、お化粧の始めに顔などの(昔は首や胸・腕・脚などにも塗った)白粉を塗る個所を洗い、化粧を落とすときは水で洗う行動が、お化粧する人の間に定着していました。昔の白粉は鉛が原料で、水で溶いて練り白粉にしたものをまず塗って、その上に粉白粉を付けます。水溶性の白粉を落とすために水を使用することは、化学的に理に適っています。しかし、現在のファンデーションは、近年人気のミネラルファンデーションを除けば、油性のものが主流です。油性の化粧品を落とすには、油脂を使わなければ落ちません(溶けません)。だからメーク落としは油性です。

メーク落としをすればメークが落ちたのだからそれで終わり、ということになるはずですが、それで終わりにする人はまずいません。その後で水を使って洗顔します(正確に言えば、水だけでなく洗顔料や石鹸も使う)。いわゆる「ダブル洗顔」です。肌を覆う化粧品が水溶性でなくなっても、日本人のお化粧は「洗顔に始まり、洗顔に終わるスタイル」が続いています。メーク落としの化粧品が顔に残っているのが気になり、顔を洗わないと「落ちた感じがしない」「終わった感じがしない」という意識が背景にあるからです。しかし、こうした意識と行動は世界では珍しいのです。 「化粧水は肌を潤すものでなく汚れを拭き取るもの」、それが世界の標準です。お化粧の始めに洗顔せず、メーク落としの後は化粧水で拭き取って終わり、という化粧行動が最も多いことがわかっています。

では、なぜ日本では「お化粧は洗顔に始まり洗顔に終わる」ことになったのでしょうか。この疑問を追求するために、さまざまな方向から考える必要がありそうです。起床時に洗顔するのが当たり前という国が世界で極めて少ないことも考え合わせると、水資源が豊富か否かということが関わっていそうです。地理的・環境的に掘り下げることができます。しかし、水資源の豊富な国でも洗顔は入浴時だけというところも多くあることから、それだけではなく、清潔観の違いもありそうです。文化による清潔観の違いの研究は、先月のエッセーの著者である亘先生が専門の文化人類学のテーマになります。また、水が清潔感と結びついた経緯をたどることは、歴史学や民俗学の研究にもなります。水を使わないとにおいが気になりエチケットに反するという意識があるのなら、何がエチケットに適い何がエチケットに反するかの研究となり、社会学や心理学の研究ができます。

  • 授業では学生も教員も誰しも平等に議論
(現代社会総合講座)
    授業では学生も教員も誰しも平等に議論
    (現代社会総合講座)

「なぜお化粧は洗顔に始まり洗顔に終わるのか」を研究テーマにすることで、このように様々な分野の研究を組み合わせて総合的に掘り下げることができます。人間関係学科は文化人類学、心理学、社会学など多用な学びができるので、このような研究にはもってこいの学科です。
実際、「現代社会総合講座」という科目では、多様な各分野の専門家である人間関係学科の教員が複数出席して1つのテーマをそれぞれの分野から料理し、そこに学生も交じって毎時間ディスカッションを重ねています。学門の祖であるソクラテスの頃のように、多様な視点がクロスオーバーし、触発し合い、時に対立もすることで気づきを得る「学問の現場」には、スリルと面白さがあふれています。私も含めて人間関係学科の教員は、いや、大学教員はすべて、学問の現場に触れた経験からその面白さにはまって生業になってしまった人たちです。せっかく大学生になったのなら、学問の面白さを味わってほしいです。

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