新元号「令和」と万葉集

もうすぐ、令和という新しい元号の時代を迎えます。人間文化学類では新2年生たちがそれぞれの専攻を決め、いよいよ専門的な学修を始めます。学生たちも、新しい気持ちで新しい時代を迎えることでしょう。
さて、この「令和」という元号は、初めて日本の古典文学作品を出典としました。天平二年(730年)の春、九州太宰府(当時は大宰府と書きました)で「梅花の宴」が開かれました。この宴には九州各地の官人たちが参集し、三十二首の短歌が詠まれました。この作品に添えられた序文にある「時に初春の令月、気淑く風和らぐ」が「令和」の出典です。
この序文を書いたのが誰かは不明ですが、宴の主催者であった大宰府の長官、大伴旅人(おおとものたびと)である可能性がかなり高いと思われます。彼は漢文にも和歌にも長けた当代一流の教養人でした。
この宴で披露した彼の歌は、つぎのようなものでした。

我が園に 梅の花散る ひさかたの 天(あめ)より雪の 流れ来るかも

「われら一同の集う園に梅の花が散る。おお、あれは天の世界から雪が流れてきたのではないか。」といったほどの意味です。当時の梅は白梅ばかりだったようで、散る花びらを雪にたとえるのは一般的です。とはいえ、旅人の歌はそのもっとも早い時期の一例といえます。
この宴には、有名な歌人である山上憶良も出席していました。憶良はこの時、大宰府の置かれた筑前国の守(かみ)でした。その憶良の歌はつぎのとおり。

春されば まづ咲くやどの 梅の花 ひとり見つつや 春日(はるひ)暮らさむ

春になると真っ先に咲く、この宿の梅の花。それをひとり見ながら春の長い一日を暮らすのか」という意味。三十二人も集まっての宴席で「ひとり見ながら」とうたうのは少し不思議です。でも、万葉集の「ひとり」は「ふたり」の反対語でした。つまり、大勢に対するひとりという意味ではなく、恋しい人と離れてひとりの意味なのです。「いやあ、この美しい梅を、妻と共に見られたらよいのになあ」という嘆きです。ここに集まった官人たちは、みな平城京から単身赴任した者ばかりです。この嘆きは一座の誰にも共有できるものでした。
もっとも、この歌にはいろいろな解釈の仕方があります。万葉集の研究は江戸時代から本格化しています。それなのにまだ解釈が定まらないなんて、とあきれないでください。作品をどう読み解くか、それこそが文学の楽しさ。研究者はまだまだ、この楽しさを手放すつもりはありません。
「令和」という元号も受け取る人によって様々に解釈されることでしょう。それもまた「ことば」の宿命です。今はいかにも優雅な文学の場が新年号の由来となったことを喜びながら、新しい時代がうるわしく、なごやかな時代となることを祈りたいと思います。

人間文化学類 三田誠司

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